2017年06月29日

【インドネシアのインド系】メダンのスィク教徒移民


メダンに於ける最古のグルドワーラーSri Guru Nanak Dev Jiへ。
この寺院はマリアンマン寺院のすぐ隣に建てられている。








参拝に来ていた美人姉妹。お姉さんの方が併設の学校を卒業したという。


キールタン吟詠奏者。こうした寺院労働者は数年ごとの契約でインドからやって来ている。


掲示板の表記は既に移民第一世代から数えて3〜4世代目なのだろうがいまだにパンジャブ語で記述されている。

中は広く立派な造りで複数の奉仕者の方々が朝の早い時間からランガルの準備や掃除などをされていた。共食の場も広く厨房も使い込まれた巨大な鍋や鉄板があって興味深い。













ちなみにこのグルドワーラーではある種の互助団体のようなグループが機能していて子供の教育などの活動を行っている。日曜学校で自分たちの子息にパンジャブ語のクラスも開いている。こうした互助団体はスィク教以外にもヒンドゥーやムスリムのものがメダンやジャカルタなどインドネシアの主な街に存在するという。





〜〜〜メダンに於けるスィク教徒移民略史〜〜〜
1920年代には既にメダン及びビンジャイBinjaiには相当数のスィク教徒の移民が存在してした。メダンに於ける最初のグルドワーラーSri Guru Nanak Dev Jiは1911年にマリアンマン寺院のすぐ隣に設立された。北スマトラ内のイギリス所有のプランテーション労働者として、また守衛などの仕事に就いていた。多くのスィク教徒の出身地はアムリトサルやジャランダール周辺からであった。第一次大戦頃までの初期のスィク移民の形態は独身で6〜7年移民労働をした後に故国に戻り婚姻し、妻を伴って再度インドネシアに来るというパターンだった。その後のスィク人口増大に伴いインドネシア国内でも婚姻するケースも増加した。

尚、メダンにはSri Guru Nanak Dev Ji以外に
Gurdwara Guru Arjan Dev Ji
Gurdwara Misi Shree Guru Tegh Bahadur
Gurdwara at Kampung Anggrung

という3つのグルドワーラーが存在する。
メダン以外にスィクの多い街はBinjaiSiantar(ともに北スマトラ)である。
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2017年06月28日

【インドネシアのインド系】メダンのタミル系移民


メダンを中心とする北スマトラはインドネシア中最大のインド系人口を抱える。
このメダンに於いて、近代移民流入後設立された中で最古のヒンドゥー寺院が1884年建立のマリアンマン寺院である。一泊だけのメダン滞在だが、インド系移民の現在を少しでも見たかったので地元の人に開門時間を聞いて急ぎ訪問した。











プージャリーのダルマさんは祖父の代からのメダン在住。祖父はマドゥライの出身だという。寺院ではタイプーサムやポンガル、シヴァラットリ、ナヴァラットリなど主要なヒンドゥー祭礼を司っている。尚、メダン在住のタミル系はヒンドゥー・ムスリム他合わせて約75000人居るという。



マリアンマン寺院の本尊はマリアンマン、その右にムルガン、左にピライヤールが祀られている(下図参照)。また寺院にはDharm Putra Schoolという学校も併設されている。



〜〜〜メダンに於けるタミル系移民略史〜〜〜
記録として残存する最古のインド人のインドネシア入植は、1873年に25人のタミル人労働者が当時イギリス支配下にあったペナンからタバコのプランターだったオランダのNienhuy社の要請で来たというものである。その後都市部/農地で労働するインド人が増加し、ペナンやシンガポールだけでなく直接本国インドからも移民が流入するようになり、1875年にはタミル/ジャワ人合わせて北スマトラで労働に従事する人口が1,000人に上るようになった。主な仕事は農地の開墾や道路工事だった。

先に移民として入植したタミル人が故郷の若者に声をかけてインドネシアでの仕事を斡旋し、移民を促進したケースもある。こうしたタミル人の中には、本来マラヤで働けると言われて船に乗ったものの到着したら北スマトラだったというような契約労働者もいるという。英領インド政府はこうした移民のオランダ領への流出に消極的だったが官民一体となったオランダのプランテーション会社による度重なる交渉により徐々に両国で取り決めが構築されていった。

マリアンマン寺院Mariamman Kovilは1884年に当時Kampung Klingと呼ばれ、現在はPetisaと呼ばれる地区に設立された。Kampung KlingのKampung はインドネシア語でいう村、Klingは後述するように南インド人の総称である。Kampung Klingはまた別称Kampung Madrasとも呼ばれた。
寺院本尊のマリアンマン女神像はKampung Klingからほど近いJalan Hinduと今日呼ばれている場所に祀られていたものが移設されたという。Jalan Hinduは20世紀初頭にAppasamy Chettiarというチェティナドゥ出身の商人がオランダ政府から与えられた土地を老境になり故郷に戻る前に転売したエリアである。オランダ政府から与えられる以前からこの地にはインド人が多く既に集住地区となっていた。現在もインド人が多くJalan Hinduという通りの名もそのままである。



Kling(キリン族/キリン人)は主にMadras Presidency及びCoromandel coastを出身とする南インド人の総称。Klingの名称は6世紀に南インドに樹立したカリンガ朝を由来とする。この内特にマレーシア(マラヤ)ではタミル・ムスリムの事はChuliasと呼ばれていた。またベンガリー(ベンガル人)は広く北インド人を総称。昭和初期にこの地を旅した金子光晴『マレー蘭印紀行』中公文庫109ページには「牛糞の灰をぬりつけ、蓬髪、痩躯の印度キリン族。兇猛で、こころのねじけたベンガリー人。」という記述がある。
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2017年06月27日

【インドネシアのインド系】ジャカルタのグルドワーラー Yayasan Sikh Gurudwara






ジャカルタ市内にも3軒のグルドワーラーがあり、建物としては最古のYayasan Sikh Gurudwaraへ(1955年建立)へ。‪住宅地の中に現れる非常に大きく立派なグルドワーラーであるが、このPasar Bharu地区がジャカルタの街で最もインド人が多い一角である。


中は非常に大きい。


荘厳な雰囲気の漂う礼拝室。



頭を覆う布を借り参拝した後、熱心な奉仕者の方々が巨大な厨房でランガル(無料の食事供与)の下準備をしているところを見学し、そしてランガルをご馳走になる。内容はチャパティ、チャナーマサラ、ダールマッカニー、キール。シンプルながら滋味深い味わい。食べ終わった後は自らターリーを洗い場に下げて自分で洗って片付ける。

















ちなみにジャカルタ最古のグルドワーラーは1925年建立のTanjung Priok Gurudwaraだったが、10年前に取り壊し別の場所に移転したという。







グルドワーラーでは毎朝キールタン(グルの賛歌吟詠)が生楽器によって奏でられる。そのキールタン奏者のBachiter Singh Riarさんによるとジャカルタには約500家族のスィク教徒が居るという。
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2017年06月26日

【インドネシアのインド系】ジャカルタのインド系移民略史

〜〜ジャカルタのインド系移民略史〜〜

近代になってからのインドネシアにおけるインド系移民はメタンを中心とした北スマトラ島が主で、ジャカルタ(旧バタビア)にインド系移民が流入するようになるのはやや時代が下ってからである。

ジャワ島には18世紀半ばにタミル・ムスリムの貿易商が居住し始め、次いでマラバール(北ケーララ)出身のムスリムが居住するようになった。ただしこうした人口は(当時の宗主国であったオランダの)統計上には出てこない。

ちなみにジャワ島ではこうしたタミル・ムスリム、ケーララ・ムスリム含む外国人移民全般をKojakという呼び名で呼んでいたという。

19世紀初頭に宗主国オランダがフランスに併合され、従来のオランダによるジャワ島の統治が一時的にイギリスによって経営された。その時、現パキスタンのスィンドが1843年にムガール帝国からイギリスの統治下におかれると、特にムスリムよりも仕事上の制約の多かった在スィンド・ヒンドゥー教徒に自由が保障された海外移民がイギリスによって奨励され、多くのヒンドゥー教系のスィンディーがジャカルタに来るようになった。これをジャカルタにおけるインド系移民の第一波と捉えることが出来る。

ジャワに移民したスィンディーは1870年代には既に2つの商会を立ち上げている。その内の一つであるK.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.は驚くことに現在も世界中に支店を構える商社として現存し、(現在の本社は香港)更に日本にも横浜/大阪にも支店がある。取り扱い品は主にテキスタイルや宝石であるらしい。1975年の創立100周年記念の際、支店は全世界26か国に広がっていた。

尚、K.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.大阪のBHAGWAN NARAINDAS氏が所有する大阪のビルは大阪市中央区南本町1-4-6 のBharatビルという。これは流出したパナマ文書に記載されていた情報でネット上に拡散されている。まさかジャカルタのインド人の歴史を調べていてパナマ文書の掲載されているインド人の名前に遭遇するとは思わず大変興味深い。

K.A.J. Chotirmall以外にも多くの大小各スィンディー系商会が登場し、経済的な成功と共に次第に政治的発言力も増していったが、こうした活動は1942年の日本の統治下以降弾圧された。

スィンディーに次いでジャカルタにやってきたのはパンジャブ系移民だった。時代にして1920年代から1940年代にかけてである。スィンディーと違いパンジャブ系移民は直接インドから来るケースは少なく、マレーやシンガポール、また一部はメダンなどの北スマトラから流入するケースが多かったという。とは言えメダンなどの北スマトラに流入していたのは主に北パンジャブ人で、ジャカルタに流入したのは主に東パンジャブ人であったという。

当初彼らは夜警やドアマンなどの雇われ仕事についていたが、次第に自らの商会を立ち上げるようになった。その頃宗主国オランダにスポーツ用品の需要が高まり、Bose & Co.やBir Co. Nahar Sportsなどの商会が設立されていった。スィンディー系の商会が主にテキスタイルやファンシーグッズを扱っていた一方、後発のパンジャブ系商会は主にスポーツ用品の分野で商圏を広げていった。

1925年にはTanjung Priokにジャカルタ初のグルドワーラーがスィク有志によって設立された(2017年現在老朽化により移転)。元来ジャカルタのパンジャブ系の最多居住区だったPasar Bharu地区へのグルドワーラー設立の需要が高まり1954年にYayasam Sikh Gurudwara Missionが組織され、翌1955年にYayasam Sikh Gurudwaraが設立された。総工費は当時の金額で約250,000インドネシア・ルピアであった。





Yayasam Sikh Gurudwaraの外観と内陣

1930年代から第二次大戦にかけての時期にはタミル系の理髪店も多くジャカルタに流入した。彼らの理髪店が多く集まった地域もまたスィクの多いPasar Bharu地区であり、現在でもジャカルタの中では最もインド系住民の多い地区の一つだと思われる。このタミル系が第三の勢力である。

第四の勢力としてグジャラート出身者があげられる。特にグジャラート・ムスリムが多数派であった(ヒンドゥーとムスリムの割合は3対7ぐらい)。彼らは1930年代当初、砂糖を扱う貿易商であったが、次第に茶葉へとシフトしていった。またタミル・ムスリムを除く他のインド系と異なりムスリムであったため戦後は地元のインドネシア女性と婚姻しローカル化していく者も多かった。

尚、1930年にPersatuaan Hindustan Indonesiaといった組織はあったものの、戦前はインド出身者全体が加入するような固定した組織がインドネシアには存在しなかった。戦後1949年になり、こうしたインド出身者を横断する団体であるBombay Merchant Associationが設立された。とは言え参加したのは大半がスィンディー系商会で、パンシャブ系の商会は3社のみだった。またBombay Merchant Associationの初代会長であるT.G.Malkaniが校長となって初のインド人学校Gandhi Memorial Schoolが1958年創立された。創立当初90人だった生徒は半年後には600人を数えるほどになった。

参考:『Indian Communities in South East Asia』K.S.Sandhu, A.Mani
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2016年12月01日

【韓国・ソウルのマスジッドとムスリム街】









Itaewonにあるソウル中央モスク(Central Mosque of Seoul)を見学。ソウル市内を見渡す丘の上に1976年に建立された、韓国最大規模のモスクで非常に立派な外観。ムスリム学校も併設されていて、案内所では韓国人ムスリムのムハンマド・ユンさん(Korea muslin federation)が小冊子を開いて熱心に解説してくれる。



ムハンマド・ユンさん(Mr.Muhanmad Yun/Korea muslin federation)



時間帯を外したせいか中には数人のムスリムの方がいてナマーズしていた。その内の一人パキスタン人アシークさんに話しかけたら、彼はフィリピンのマニラに住んでいて、たまたまソウルに遊びに来ていた人たちだった。しかもソウルに来る数日前日本にも立ち寄ったとの事で、八潮に滞在していたという。まさか韓国に来てパキスタン人と八潮談義するとは(笑)




さてモスク周囲はパキスタン系をはじめとしたレストラン・ハラール食材店が集中する一角になっている。中でも目立つパキスタンの食品メーカーNational社のディストリビューター兼小売をしている店に入ったらちょうどお弁当タイムだった。ここのオーナーのカーン氏によると周辺のインド料理店はパキスタンの名を冠してなくても大体パキスタン人オーナーらしい。














品揃え的にはパキスタン製以外にバングラデシュ製、スリランカ製など充実しているが、インドのメジャーブランドMDHはディストリビューターが居ないのか、どのハラール食材店にも置いてなかった。





モスクにナマーズに来るムスリム中、パキスタン人とバングラデシュ人の割合が多いという。とはいえ日本のように中古車輸出業を行っている人は居ず、韓国のパキスタン人は小売店や飲食店の経営、工場などで勤務している人が大半らしい。
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2016年11月30日

【韓国・ソウルのネパール人街vol.2】



周囲のネパール人から、スクティなど本格ネパール料理を食べたいのならここだと教えてもらったデウラリ・レストランへ。ここも開業して11年という老舗。



ここはマヤ・グルンさんという女性オーナーによって切り盛りされている。他のネパール人経営者がタンドールを入れナンやインド風の料理を提供するのに対して、自らはそうした妥協をせずオーセンティックなネパール料理を出すことを心がけている。タンドールも置いてない。言動といい姿勢といい、また出身地もプルジャさんにかなり近いものを感じる。





早速マッコリとスクティ。韓国でも水牛肉が入手出来ないため、牛肉で代用しているという。仕上がりはかなり固めで辛い。次いで品数の多いダルバート。



韓国人客は少なくともこうした本格ネパール店には来ないが、いわゆるバターチキンとナンの店は韓国人客で繁盛している記事を見た。韓国には本格ネパール料理マニアは居ないのだろうか…。代わりに土日になると韓国全土に散らばったネパール人労働者たちが集まって来て非常に忙しくなるという。このパターンはクアラルンプールのネパール人街も同じ。男性単身出稼ぎ者には特にこのような店は人気なのではないだろうか。



ちなみにオーナーのマヤさんは韓国人男性と結婚し、国籍も韓国籍を取得済み。23歳と13歳の娘が二人居る。韓国ではネパール人男性+韓国人女性の組み合わせより韓国人男性+ネパール人女性の組み合わせの方が多いという。特に以前は婚姻による来韓が多かったが、それが増えたため現在では制限されているという。
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2016年11月29日

【韓国・ソウルのネパール人街vol.1】







ネパール人街探訪が今回の韓国訪問の最大の目的の一つだった。地下鉄東大門駅3番出口から出ると通り沿い、また少し裏手に入ったあたりに10数軒のネパール系レストラン、ネパール系食材店が(隣合っては無いが)固まっていて、ある種のネパール人街エリアの様相を呈している。韓国のネット情報でもこの地域をLittle Nepalと称しているものを目にすることもあった。







なぜこの場所になったのか、この地で長年商売をしているネパール人オーナーさんたちに聞いても確たる理由は不明だが、一つの理由として在ソウル・ネパール大使館が近くにあることも挙げられるという。また他の場所に比べ賃料も若干安のもその理由の一つらしい。






この地で最古参のレストランはナマステ・レストランで、約15〜20年前に開業。次いでエベレスト・レストランが続く。

食材店もこの地域に4〜5軒あったが、その内の一つPashpati Martに入ると、在韓ネパール人向けのマサラや豆などの他、毛布やショールなどの布製品が目立つ。以前訪れたクアラルンプールのネパール人街でもそうだったが、なぜかネパール人や出稼ぎの南アジア人はこうしたものを手土産に帰国する人が多い。こういう、ネパールに帰国する人向けのみやげを売るのはKLでもソウルでも共通するのに新大久保辺りの店ではそれが無い。





このPashpati Martのオーナーのグルン氏は以前日本にも数年働いていた事があり、その時は大田区久が原に住んでいたという。久が原周辺もかつて多く在日ネパール人が居住していた場所で何度か行った事がある。
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2016年06月30日

パリの本格ネワール料理店〜Kathmandu


パリにも本格的ネワール料理店が存在する事を知った。
11年前にオープンしたKathmanduという店で、本格的ネワール料理を提供するという。
思わず興奮して早速訪問。



店内は地元のフランス人客でほぼ満席状態。メニューは全てネワール語のアルファベット表記されており、また内装調度品にもネワール的な装飾が施されていて非常にこだわりを感じる。




オーナーのバクタプル出身マンモーハン氏によると、18年前オープンしたサガルマータがパリ最古のネパールレストランらしい。他にもネパール人オーナーのネパール料理と銘打ったレストランはあるものの、実際にはメニューにはインド料理がほとんどという、日本でもありがちな状況らしい。


オーナーのバクタプル出身マンモーハン氏

ドリンクメニューにあったゴルカビールは残念ながら無かったが、よくメニューを見たらチャン(Thwon)があるというのでとりあえずチャン、そしてAyela Rakssiロキシー。




ダックのチョェラ(Hen yu cheoyelaa)とダルバートのセットをオーダー。チョェラはチキンまたはダックから選択する。マトンもバフも無いという。ロンドンでは普通に売られていた水牛肉がパリでは入手出来ないという。






カンワルといった調度品も純ネパール仕様。こんな調理器具類にまさかパリで出会えようとは。

ダルバートはククラ・コ・マスを選択。ダルが優しい薄味ながら久しぶりに染みる味。他の小皿にはサーグとマッシュルーム、ゴルベラ・コ・アチャールが入っている。ネパール料理の美味しさを再確認したパリの夜だった。







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2016年06月29日

パリのインド人街〜タミル系ヒンドゥー寺院


Là Chapelle駅近くにパリのタミル系ヒンドゥー寺院が2つある。
その内の一つ、建立25年のマリアンマン寺院を訪問。専用の敷地での建立は国から許可がおりないらしく、事務所ビルの一室のような場所にある。中には平日昼間ながら数人の方が参拝に訪れていた。


寺だ!すすけた色のパリのビル群の合い間に寺は忽然と姿を現した。




人気は感じられないが、タミル語のボードを頼りにエレベーターに乗り階上へと進む。


中は意外と広い空間で、いくつもの神像が祀られていた。






世話役/司祭役をされている司祭階級(=タミル・ブラフミン)の男性。普段は技術系のサラリーマン。



マリアンマン寺院からほど遠く無い所にガナパティ寺院も見かけた。ヒンドゥー教系宗教施設もまた少なからず存在する事が確認できた。




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2016年06月28日

パリのインド人街〜Passage brady

Passage bradyはパリ北駅東側に広がるリトル・ジャフナとはまた違ったインド系飲食店集住地区である。



こちらの方がより歴史が古いらしく、1970年代からインド系住民が多く集まるようになったという。その内訳はパリ北駅のリトル・ジャフナがタミル系スリランカ人移民が多いのに対し、パキスタンやパンジャーブ系が多くLittle Islamabadとも呼ばれる。ここには小さなpassageの両サイドに主にパキスタン系オーナーによるインド料理店が10軒弱並び、インド系の従業員が店頭に立って案内などしている。







passage Bradyは地下鉄Garr De I'Est駅からBoulevard de Strasbourgを少し南下した辺りに位置するが、周辺はアフリカ系移民が歩道を歩くのに邪魔なほどたくさんたむろっていていわゆる一昔前のNYハーレムのような印象。




passage Bradyのアーケードの中には、ポンデシェリー出身のオーナーが経営するVelanという野菜から食材から衣料品、装飾品、楽器や書籍まであらゆるインドアイテムを売る店がある。












少ないながらもインド食器も置かれている。





在住のインド人相手ではないような、仏語で書かれたインド料理書籍なども売っており、インド人以外の顧客もターゲットとしている事が分かる。インド関連でここまでの品揃えの店は珍しい。ここで記念にフランス語で書かれたインド料理本をいくつか購入。




料理名や料理写真と背景の組み合わせ(例えば南インド料理の下敷きにヒンディー語新聞が使われていたり…などの実証分析不足は別にして、やはりその色味だったりデザイン性はさすがフランスの書籍である事がか感じられる)



その先にある老舗インド料理店Poojaへ。



ラム・ビンダルー、ラム・ビリヤニ、ジーラライス、チーズナン。ビンダルーが酸味は全く無くて物凄く辛い。実は昨日行った店でもビンダルーをオーダーしようとして店の人に「とても辛いですよ」と言われコルマに変更した。フランスのインドレストランに於いて、コルマとビンダルーの違いは料理方法ではなく、単に辛さ度合いを示す意味合いのようである。そしてこの辛さの度合いを示すために使われている単語はフランスのオリジナルなのか、元来イギリスあたりで使われていたものがフランス化したのかは分からない。いずれにしても用語の誤った使用法から垣間見られるフランス目線のインド料理解釈が興味深い。



ビリヤニにも青唐辛子がかなり入っているが美味い。西洋人はやはり辛い料理が好きなのだろうか。この辺の嗜好が興味深い。相変わらずチーズナンのチーズが美味いのは昨日の店同様。


Poojaはこの地区では珍しくインド・ガルワール出身Bhatt氏の経営で、彼は周囲のパキスタン系の店がインド料理店を名乗ることを快く思っていないBJP支持者。Bhatt氏はフランスに1980年に来て当初8区にあるアンナプルナに勤務し、20年前に独立。ガルワール出身の調理人は日本にも多く、日本にも知り合いがいるという。


オーナーのBhatt氏。髪を束ねてちょんまげを結っていたり、やはりどことなくフランスはインド人をオシャレにさせるらしい。


ガルワール出身のスタッフ。彼もいずれかはオシャレなオーナーになるのだろうか。

従業員君にもいろいろパリのインド情報を教えてもらい、短いながらも充実したパリ滞在が出来た。








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2016年06月27日

パリのインド人街〜Little Jaffna

高速鉄道ユーロスターにてロンドンを出て花の都パリに到着。


高速鉄道ユーロスター。チケットはネットで購入可能。


パリ駅を出て見える光景。パリのリトルインディアはこの駅のすぐ北側に広がっている。

予約しておいてたパリ北駅近くの10区Le Chapelleにあるフォブール・サンドニ通り、インド・スリランカ人街(Little Jaffnaとも呼ばれる)のど真ん中の宿泊先に進もうとする。しかし全く場所が分からない。駅前であてずっぽうに進もうとした矢先、一見親切そうなおじさんが『一緒に案内してあげましょう』などと言って着いてくるよう言われる。話を聞くと南米からの移民?で、案の定ホテル付近まで着いたらバクシーシを要求された。インドではこうした人たちとの接触は日常的だがフランスでもそのような体験をするとは。少額コインを渡すと『少ない!』と文句を言われつつホテル内に避難。ホテルの部屋の外の風景を眺めると、目の前にはLittle Indiaという衣料品店があって興奮。




ホテルの窓からの光景。目の前にはLittle Indiaという衣料品店。


駅で購入出来なかったSIMカードは街中至る所にある店で購入可能。



旅行前に英アマゾン経由で入手していた『The encyclopedia of Srilankan diaspora』によると、パリには旧仏領のタミルナードゥ州ポンデシェリー出身者が従来多いのと、内戦時代のスリランカからのタミル系難民が多いためタミル・スリランカレストランや店舗が目立つ。実は現WB州チャンダンナガルも旧仏領だったのでベンガル人が固まるエリアもあると思うが、こちらに関しては詳細な場所が分からない。衣料品店や食材店などが展開しているのも他国のインド人街と同様。近くにはタミル系のマリアンマン寺院とガナパティ寺院(共に小さいらしい)もあるという。

空腹だったので取り急ぎ手近にあったDishnyというタミル・スリランカレストランに入りビーフコルマ(kouroumaというスペルになっている)とチーズナン、クルシェット?とダールとライタが付いたライス。チーズナンのチーズが美味いのはやはりチーズの国フランスならではなのだろうか。







さて非常に興味深いことにメニューを見ていると肉・鳥・野菜などの具の名称と共にkourouma、curry、vindalooというカテゴリー分けされていることに気付く。この後も複数軒パリのインド系レストランでメニューを見て分かったのだが、これはグレービー・ソースの違いというより辛さの違いだった。kourouma、curry、vindalooとは要するに普通・中辛・大辛のような辛さの違いだけを示す。ためしにこのレストランで私は当初『vindaloo下さい』とオーダーしたが、店員にそれはかなり辛いですから余程辛いのが好きでない限りやめといた方が無難です、と言われた。そのためこのDishnyでは普通に相当するkouroumaにしたのだが、別の店でvindalooを頼んでみた。すると本来的なゴア料理としてのvindalooの酸味はなく、単に辛さを増したカレーが登場した。


特徴的なカテゴライズのメニュー。三段階の辛さをkourouma、curry、vindalooと記述している。

フランス人客もかなり入っていて、彼らはフォークとナイフで器用にカレーを食べている。当初テーブル上にはフォークとナイフしかなく、スプーンが無かったので忘れているのかと思いきや全てのテーブルがそうだった。フランスではこうしたレストランではフォークとナイフしか出さないらしい。









Dishnyのような酒を置くムスリム経営店も多い中、タミル・ムスリムの方が経営するPondicherryは酒を置かない純ハラール店もある。ちょうどフランス訪問時もラマダン期間中だったが、フランスの日没は21時50分と非常に遅く、在フランス・ムスリムの方々の苦労が偲ばれた。こうした教義を厳格に守っているPondicherryのような店は周囲の経営上酒を出しているハラールではない店からは尊敬の念を置かれている。



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2016年06月26日

ロンドン【Wembly】

せっかくのロンドンだからヒンドゥー寺院も参拝しようと、主にグジャラーティが多く居住するWembly地区にあるShere Sanatan Mandir(寺院)へ。pandit(司祭)のBhavik Pandya氏はグジャラート州出身で大学でヒンドゥー教を修めた方。まだ若そうに見えるが既に在英6年になるという。




pandit(司祭)のBhavik Pandya氏

寺院は2010年5月に建立されたまだ新しいもの。内装は彫刻が見事だが、それらは全てインドで彫刻されたものをイギリスで組み立てたらしい。ちなみに愛想の良い守衛さんは東ネパールのダラン出身ライ族のおじさんだった。


ライ族の守衛さん。イギリスではこうした元ゴルカ兵が引退後守衛、ガードマンなどに携わっているケースが多いという。

参拝後、パーン屋やサリー屋やインド食材店が並ぶ通りにある、全員グジャラーティ女性が厨房で働いているAsher'sというグジャラート料理店でグジャラーティ・ターリー。ダールとサブジーとチャパティ、バターミルクのシンプルな構成ながら本当に家庭の味そのもので深く美味い。厨房含めて全てのスタッフが女性というのも珍しい。料理を待っていると常連客らしきインド人たちで店内かなりのにぎわいを見せている。









Wembly地区のマーケットは前日訪問したSouthallよりも充実しているように感じられる。中でも商売柄驚いたのはインド食器のみ扱っている食器屋が2軒も存在している事である。店内もかなり品ぞろえが充実している。またこうした在外インド系タウンにあるこの手の店特有の陳列だが、グジャラート系のみならず広く北インド・南インドの商品を扱っている。インドでこうした店を覗くとその地域特有の品揃えとなるのであるが、こうしたバランスよい陳列が在外インドタウンに於ける店の特徴であり、手っ取り早くインド(の製品)を知るうえではコンパクトにまとまっていて便利である。







他にもWemblyのインド系マーケットはかなり大きく、インドのバザールを歩いているのと何ら遜色ない街並みにある種のイギリス人への羨望すら感じてしまう。こんな身近にインドがあるなんて何という恵まれた環境なのだろうか。







さて、そのWemblyマーケットの外れの方にネパール人(タマン族)経営の食材店を見つけた。









奥には何とカシや豚の他に水牛(ビーフでなく)の生肉まで売っている。日本と違い水牛肉の入手もこのような店で出来てしまうのが凄い。こういう店で陳列されてるものを見ると、在外ネパール人が何を求めているかがよく分かって興味深い。





近くにはmomo houseという店名のネパールレストランも見かけた(但し客層はネパール人ではなくアングロ・サクソン系が多かった)。街中のサリー屋などでショッピングしたりシヴァ寺院に参拝するネパール人も少なくない。ちなみにロンドンに来て初めてAldershotという郊外の町にネパール人が多く居住し、リトルネパールとも呼ばれていることを知った。
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2016年06月25日

ロンドン【Southall】

6月24日、ユーロ離脱確定当日のロンドンに到着。ロンドンへの機内では『Cocktail』というロンドンを舞台にしたサイフ・アリーとディーピカーのボリ映画でロンドンの雰囲気を体得。ユーロ離脱確定のおかげで英ポンドがかなり下落し円高ポンド安状態になっているのが非常にありがたい。空港に着くと有名なSIMカードの自販機もあったが、自らアクティベートするのが困難なのでここでは買わず。


SIMカードの自販機


購入したSIMカード。空港から地下鉄に乗る通路の途中にVodafoneのカウンターがあり、そこで購入。ちなみにここの店員さんもインド系だった。


案内所の係官もインド系。

空港の入国審査係官もSIMカード売り場のお姉さんも地下鉄案内人も全員インド系なので初めての国に来た違和感が全くしない。とは言っても「ヒンディー語分かりますか?」と聞いても若い人などは「聞くだけなら…」みたいな人もいて驚く。 数世代も前から居住していて在英インド人と言えど母語(祖先の言葉)が出来ない人が少なくないという。但しこの流れはインドでも同様で、家庭内の会話すら英語で行うインド人も存在する。

【Southall】
翌日、最も有名なインド人街・サウソールへ。在外インド系コミュニティを語る時、サウソールは欠かせない名前で、昔から一度は訪れてみたい街だった。地下鉄で向かう途中、郊外列車に乗り換えなければならないが、パンジャビーを着た方に話しかけてみたらやはりサウソールに行くというので一緒に行くことが出来た。

事前に調べた通り駅の表示までもがグルムキー文字で表記されていてテンション上がる。駅から程近いグルドワーラー(スィク教寺院)Sri Guru Singh Sabaへ。海外のグルドワーラーを訪ねる際によく感じる事だがサウソールのグルドワーラーは特に年齢層高めで、まるでインドの老人ホームに来たかのような印象を受ける。本尊のグル・グラント・サーハブに喜捨してダルシャン後、両手を差し出しプラサードのスージーハルワをいただく。その後広い食事場でランガルをいただく。これが今日最初の食事。内容はチャパティ2枚、サルソン(に、ほうれん草などがミックスされた)カ・サーグ、ブンディー・ライタ、ダール・マッカニー、ライスのキールだった。



















同じくサウソールで、ミターイー屋を見つけて思わずバルフィー類を衝動買い。しばらくサウソールの通りを歩くと同様のミターイー屋が5〜6軒存在するのがわかった。同様に、インド系スーパーも多い。様々なインド系食料品が売られている。シンガポールのムスタファでも感じたことだが、インド各地を出自とする人たちが集積しているため、販売商品の地域的偏りが比較的少ない。東西南北あらゆる食材が所狭しと並べられている。また店頭にはパキスタン産のマンゴーが箱で売られている。一つ購入してみたが、これは日本で食べたアンビカのマンゴーの方が美味しかった。











またサウソールにはヒンドゥー寺院もある。外観が見事に北インドスタイルのVishwa Hindu Kendraもある。インド人だけでなくネパール人も参拝に訪れていた。プージャリーは北インド・シムラー出身。









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2016年01月08日

バルセロナ市内のパンジャブ人による土産産業

バルセロナ市内にはお土産屋が無数にあるが、その大半はスペイン国籍を取得したスィンディー系インド人の所有で、店番にパンジャブ人(インド人パキスタン人双方)他が雇われている。
例えば有名なグエンパークの近くには大小4軒の点在するが全て同一のインド人オーナーによる経営。




スペインで製造された土産品は目立つ所にごくわずか置かれている以外は、民芸品の大半は中国製、地名や有名サッカーチームのロゴマーク入りのTシャツはバングラディシュ製でタグにもmade in Spainと記載しているという。






なぜスペインの土産をスペイン人が売らずにインド人が売っているのか?と聞くと、雑多な観光客の中には激しい値引き交渉したり、クレームを付けてきたりする悪質な客も多く、こうした仕事をスペイン人はやりたがらないからと言う。いずれにしても、他国に来てその国の土産ビジネスに参入する印僑パワーには圧倒される。

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2016年01月07日

バルセロナ最古のグルドワーラーSikh Gurudwara Gurudarshan Sahib ji

バルセロナの観光スポットの一つであるボケリア市場。



生鮮食材・野菜・果物などあらゆる食材は元より、それらを使った料理をワインなどと共に出すカウンター式のバルや食堂なども多い。イベリコ豚の生ハムやイカ墨のパエリアなどをアテにしてセルベッサ(生ビール)などがたまらない。昼間から陽気にワイワイ騒ぎながらワインなどを飲んでいる人々などを眺めながら、スペインに来た事を実感するひと時でもある。





そんな典型的なスペイン情緒あふれるボケリア市場の裏手一帯に
濃厚なインド人街が展開している。







インドレストランやインド系食材店、インド方面のチケットを手配する旅行代理店、中にはグラーブジャムーンやジャレビーを店頭に置いたミターイーの店まである。スペインまで来てインディアン・スイーツに出会えると思っていなかったので感動を覚える。尚、このJHELUMの店主さんはパキスタンのラホール出身。

















バルセロナにある4つのグルドワーラーの内、最古のグルドワーラーSikh Gurudwara Gurudarshan Sahib jiをインド人街散策中に偶然見つけて思わずドアをノック。平日昼間だったせいか人影はまばらである。奥の方から現れた司祭のRanjeet Singh氏に温かく招き入れていただき、参拝後にハルワのプラサードをいただいた。尚、海外のこうした施設で時々出くわすが、地元スペイン人らしい男性がターバンを被って参拝に来ていた。











平日昼間にもかかわらずポツポツと参拝に訪れる方々が少なくない。この周辺はパンジャーブ人人口が多くバルセロナ市内に約10〜15,000人は在住しているという。





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2016年01月06日

スペイン・グラナダのインド・パキスタンレストランMuglia

スペイン・グラナダでのランチはこの街でほぼ唯一のインド・パキスタンレストランのMugliaへ。
リスボンには無数にあったインド系レストランがグラナダに入った途端に激減し当惑する。
(のちに分かったが、スペインは主要都市部を除き移民に対して排他な政策を取っているらしい)

Mugliaという名称からしてこってりしたムガライ料理を連想させ、またインド・パキスタンと表記するのはほぼ100%パキスタン系移民であることが予測された。インド出身者が海外でインド料理店を営業するのにわざわざインド・パキスタンとは表記しないからである。また特に海外で見かけるムガライ料理店は内外装を重厚な、あるいはゴテゴテした装飾で飾りがちであり、かつ店内の光量を絞り薄暗い間接照明などを使いたがる特徴があるがこの店もまさに絵にかいたような典型的ムガライ料理店だった。





ここのオーナーのミルザ氏は単身パキスタンのラホールから91年にこの地に来て店を始めたという。



オーナーのミルザ氏。
若い頃からのスペイン滞在のためか、なかなか洗練されたファッションに身を包んでいる。



オーナーのミルザ氏とスタッフ。皆、パキスタンのラホール出身。



マトン・ビリヤニとチキンティッカ、チーズナン。
スペインに入って数回、パエリアや米料理を食べたが全て少し芯を残す炊き方だったので、ビリヤニもそうなのか気になっていたが、マトン共々大変柔らかかった。マサラやバスマティライスなどはマドリードやバルセロナのパキスタン業者から仕入れているという。



店内で飲酒も出来るのでハラールレストランではない。
注文したのはアルハンブラ・ビールというボトルビール。



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2016年01月05日

スペイン・グラナダのインド食材店India Bazar

ポルトガルからバスで国境を超えてスペイン・グラナダに到着。
スペインらしい街並み・建物の佇まいに感慨深いものを感じます。





宿泊先に荷を下ろし、裏道を登って散策してみると、偶然通りがかりにインド食材店India Bazarを発見。在グラナダ11年のグジャラート州スーラト出身のムスリム、モハメッド・サリームご夫妻によって経営されている店だった。





商品の主な仕入先はドイツのインド人業者から。ヨーロッパは食品検疫が厳しく、販売用のためには外装に内容表記する必要があるがインドからの輸入品は基準を満たしていなく直輸入が難しい。ヨーロッパでもイギリスよりもドイツからのものが表記がしっかりしているため、ドイツから輸入しているという。









客層は非常に少ないインド系出身者(南インド人の方が多いらしい。ITでなくキリスト教関係の仕事が多いらしい。実際にバルセロナでマザーテレサと同じサリーを着た女性を見かけた)の他に、地元スペイン人も飲食店がバスマティライスなどを買うこともあるという。そもそもインド系住民が少ない割には品揃えが豊富なのがやや不思議な印象。家賃は約160ユーロ。
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2016年01月04日

カシュカイシュのパンジャブ系レストラン

ヨーロッパ鉄道駅の最西端に位置するポルトガル・カシュカイシュへ。
ここは風光明媚なリゾート地で砂浜もありヨーロッパ各地からの観光客も多い。ただでさえ寒くはない冬のポルトガルにあってさらに生暖かい海風がそよぎ快適である。









この町にはタージマハル、マサラ、ガンディーパレス、インターナショナルという4軒のインド料理屋がありオーナーは全てパンジャーブ人である。スタッフもほぼパンジャーブ出身者で占められている。メニューは北インド料理以外にピザやパスタなどイタリア料理他の西洋料理を出している店も多い。ただしこうしたポルトガルにあるインド料理店でピザやパスタを出されると、日本にあるインネパ系店でピザやパスタを出されるのと何となく違う感じがしてくるから不思議なものである。胃に余裕があれば食べ比べをするのだが…












レストラン前で客の呼び込みをしていたパンジャブ青年。


パンジャブ人だからヒンディー語も普通に通じるのがいい。

この地には経営者・スタッフ総勢約30人ものパンジャーブ人が暮らしているらしい。逞しいものである。リスボンのYellow Lineオディヴェラス駅にはグルドワーラーがあるという。(ちなみに3つ手前のルミアール駅にはグジャラート系のクリシュナ寺院があるらしい)
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2016年01月02日

リスボンに於けるカバーブ屋

2016年の新年はポルトガルのリスボンで迎えた。
リスボンでは市内の広場で花火で新年を祝っていた。



石畳の道路、石造りのカテドラル、街路樹はオレンジがなっている。
テレビで見た古き良きヨーロッパの街並みがそこにはあった。



だがしかし。
個人的な習性はどうしてもそこではなく、南アジア系へと向かってしまうのはいかんともし難い。

リスボン到着時道案内などしてもらったカバーブの店が印象的だった。多くはバングラディシュ人オーナーの所有で、従業員もバングラ系やパンジャーブ人だった。他の飲食店舗が正月休みで閉店している中、そこだけ煌々と灯りがともされ、ともすればヨーロッパ的景観を損なうほどのハデ目な赤い看板が掲げられている。そして深夜まで花火などで盛り上がった地元の若者たちを中心に店には人だかりができていた。日本のようにコンビニも無いリスボンの街、そこ以外に食べる場所の選択肢がほとんど無いというのも理由なのだろう。


元旦の早朝、人だかりができているカバーブ屋店頭。



中にはケバブだけでなくなぜかみそ汁や焼うどんなどもメニューに取り入れている店もあり思わず話しかけてみた。「中国人が多いからメニュー化した」というが、日本人と中国人を混同しているが逞しくていい。また『なぜ正月から営業を?』と聞くと「地元の店が休みな今こそ稼ぎ時だから」という清々しい答え。





バングラディシュ人の経営だからと言って決してハラール料理屋という訳ではなくビールや地元名産のワインなども売っている。実際カバーブとビール、といった組み合わせで食べる人が多いし料理的にもその方が自然に感じる。

妙な和食もどきを売ったり、イスラム教徒なのに酒を売ったりするその姿にやましさなどは微塵も感じられない。イスラム教徒である以前に生活者であるというごく当たり前の姿がそこには垣間見える。
posted by asiahunter at 10:32| Comment(0) | ■世界のインド人街から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

ポルトガルのゴア料理店探訪

ポルトガルと言えばゴア料理である。
ポルトガルが1960年代までゴアを植民地支配していたためゴアの街中至るところにポルトガルの雰囲気を感じることが出来る、などとガイドブックには記載されているが、実際にポルトガルに行ってみない事には比較の仕様がない。そんな機会はないと思っていたが、今回ヨーロッパ訪問することとなりその機会が訪れた。2か月前にゴアを訪問した際はそのような計画は一切なかったので不思議なものである。

実際にリスボンの街中を歩いてみると、時代を感じさせる教会などの施設などはかなり似た雰囲気を感じさせる。では一体、料理はどうだろう?ビンダルーやシャクティやベビンカなどのゴア料理は実際にポルトガルに於けるゴア料理店ではどのように食されているのだろうか?というのが知りたい所だった。

ちなみに2015年10月に訪問したゴアの様子はこちらからご覧いただけます。

ゴア滞在記・市場散策編

ゴア滞在記・飲食店編

ネットでリスボンに於けるゴア料理店を検索するとさすがにたくさん出てくる。とは言え実際に訪れてみると正月休みで閉まっている店も中にはあった。ネットで調べたゴア料理店片っ端から電話し、短いリスボン滞在の間に2軒のゴア料理店に行くことが出来た。

まず1軒目。Sabores de GOAという老舗ゴア料理店で念願のポルトガルに於ける初・ゴア料理を堪能。食前酒によく冷えた赤のサングリアは1リットル 8ユーロ、Pork Balchao/ポークバーシャオ(グレービーは小海老で出汁を取っているという)10.5ユーロ、ポークビンダルー10.5ユーロ。ゴアで食べたポークビンダルーは酸味や辛味がかなり強く感じられたが、この店のそれはマイルドな印象。サングリアの攪拌棒が長いシナモンだったのが雰囲気があっていい。デザートのベビンカはネットリとした甘さ。

スタッフの一人は父親がゴア出身だが彼はモザンビーク生まれで、ポルトガルには70年代初頭に来たという。従ってコンカニ語は分かるがヒンディー語は分からないという。実はリスボン街中で何人か道を聞いたりしたゴア出身者とも話をしたが、ヒンディー語の通じないゴア出身者が結構多いようである。











ちなみにこの宿泊先からゴア料理店に向かう道すがら、ヤク&イエティ、アンナプルナ、ブッダという3軒のネパールレストランを通過した。メニューを確認するとナン・カレーのインド料理主体のインネパ店のようである。














ポルトガルでのゴア料理2軒目はディナータイムにDelicious de GOAというレストランへ。
まず店の内外装が素晴らしい。オーナー発案の絵やゴア風装飾であふれている。白と水色で統一感のある店内。オーナーのロドリゲス氏の経歴が凄い。ゴア生まれで母に伴われてモザンビークに行き、その後ブラジルへ。その後ポルトガルに渡り8年前から同店を経歴している。料理を作るスタッフには自分の息子も使っている。













ヴィンダルーを作るためのカシミール・チリなどのスパイス類はリスボン市内に取り扱い業者がいて700gで12ユーロほどらしい。そうした業者もインドから輸入している食材もあればイギリスから輸入しているものもある。

オーダーしたのはポーク・ヴィンダルー、魚のスパイス詰め。この魚の名前を聞いたら「ドラガ」と教えてもらった。デザートにベビンカ。どの料理もオーナーの真面目な人柄が反映されている味わいで美味しかった。







それにしてもモザンビークも旧ポルトガル領だとは知らなかった。ゴア出身者でモザンビーク在住者も多いらしいし、モザンビークにもゴア料理店が多いのかも知れず、一度行ってみたくなった。





posted by asiahunter at 10:26| Comment(0) | ■世界のインド人街から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

リスボンのネパール人食材店

翌ポルトガル行の出発日。イスタンブールに降り続く初雪は初めの内は物珍しさもあったものの、次第に積もりはじめ、明け方少し心配になってホテルの窓から覗くと10数cmほどにもなっていた。東京であれば完全に交通マヒするレベルの量。前日に空港行バスは予約していたが、はたして運行するのか、仮にしない場合はどう空港に行けばいいのかまんじりともせず明け方を迎えることとなった。



道路状況が心配でもあり、空港へはバスで行くのをやめメトロ(地下鉄)で行くこととした。街中は吹雪の様相を呈しており、メトロの駅にたどり着くまで横殴りの大雪が降り注ぎ目も開けられないほど。そんな状況の中メトロの駅を間違え一駅先の駅にたどり着く始末。スーツケースを抱え大げさに言えば遭難を意識した。しかも途中の乗り換えで逆方向の車両に乗り込んでしまう始末。出発時刻に間に合うのだろうか…

イスタンブール空港にたどり着くと数時間遅延の案内が。このため空港内は大混雑していた。





ちょうど同じ便の搭乗ゲートにネパール人らしき家族連れが数人いた。思わず話しかけるとポルトガルで働いているコックさんだった。彼らからポルトガルに於けるネパール人事情や彼らがポルトガルに滞在するに至った興味深い話し(ポルトガルは他のユーロ圏に比べ労働許可証の取得が簡単、そこで数年働くことによってキャリアを積み他のより賃金の高いユーロ圏へと向かうというルートなど)、ポルトガルに於けるネパール人コミュニティや寺院など飛行機の遅延もそうした情報収集の有意義な時間となった。

ポルトガル・リスボン行フライトは3時間ほど遅れたのちイスタンブールを離陸。
やがて夕闇迫る美しいリスボンの街が近づいてきた。



リスボン着後、右も左もわからないのでケバブ屋に道を聞くとリスボンのケバブ屋はほとんどバングラディシュ人が働いている。彼らはヒンディー語も出来るので道を聞いたり安ホテルの場所を聞いたりして大変助かった。



同じ飛行機だったネパール人から聞いていた通り、リスボンはネパール人が少なくないらしい。宿に荷物を置いて早速外出した所、比較的街の中心部近くにNamaste Nepalというネパール食材店を見かけた。



店はバグルン出身タラさんというオーナーが経営していてチウラやギーなどのネパール食材がネパールや一部はイギリスから輸入されて陳列されている。このオーナーの奥さんの一族もまたリスボン市内でネパール食材店とレストランもやっており、ダルバートやスクティも食べられるとの事。家内の付き添いでやってきたリスボンだが、こうした充実したネパール人社会が存在するのならばかなり楽しみになってきた。


オーナーさん一家





















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2015年12月31日

イスタンブールのインド料理店Swaad

2016年の正月は全くの仕入ナシの海外家族旅行へ。行先はスペイン・ポルトガル。利用した航空会社はトルコ航空で、まずは経由地のイスタンブールへ向かいます。



冬空の下、ロシアの凍てつく大地などが見下ろせてなかなか感慨深い。



機内にはウワサで聞いていたコック服の乗務員が。
他にもしゃけまたは梅のおにぎりがいつでも食べられるようにストックされていて(日本発の便)、至れり尽くせりのサービス。いっぺんでトルコ航空ファンにさせられる。



黒海を渡り、徐々に高度を下げてイスタンブールへ。
事前の成田ではイスタンブールは(初)雪との情報で、そのため搭乗〜離陸時間が早まったがこの段階ではそれほどの雪は降っていない。(ただし翌日にかけて数十センチの大雪になった)



お約束のスルタンアフメッド・モスク見物。
まさかここを見物した約2週間後にISによるテロが起きるとは思わなかった。

到着時は晴れていた空は次第に曇り、かなり大粒の雪が降ってきた。既に路上や屋根などにはかなり積もり始めている。そんな中、薄着のシリア難民がプラスチックのコップ片手に、もう一方の手にはシリアのパスポートを持って物乞いしている姿が多く見られた。物乞いはインドでよく見かけるので驚きはないが、インドとは別の痛々しさを感じる。報道だけで知っていたリアルな国際情勢の一端に触れた一瞬だった。







イスタンブールに来ても普段からの習性でどうしてもインド料理店が気になる。
ある程度インド料理店の目星はネットで情報収集していたが、何せ大雪なのでなかなか出歩けない…と半ばあきらめかけていた矢先、日本から予約したホテルの3軒隣がたまたまSwaadというインド料理店だった。従ってトルコ到着後の最初の食事はここでバターチキンとナン、パラク入りのパランターという純・北インド料理。バターチキンはバターの芳醇な香りと甘すぎない味付けが美味かった。ただしナンの出来があまりにも日本のインネパ店のナンのようなふっくらさが無いのでホーム係のパキスタンのペシャワール出身のカーン氏にその由を伝えたらタンドール係がまだ慣れてないとの事。であるならばライス系の選択肢も視野に入れたのだが。









入り口からの見た目以上に広い店内。
都内の小さなインネパ店に見慣れた目には非常にゴージャスに映る。

このSwaadは、5〜6年前の創業時はインド人オーナーだったが、2年前からトルコ人オーナーに変わり、それ以降トルコ料理も出すようになった。厨房スタッフはインドのデリー出身ラジェンドラ氏他インド人数名、トルコ人数名。イスタンブールにはこの店以外に5〜6軒インド料理店がある。駐在などで居住しているインド人は少ないらしいが、3月以降の観光シーズンになるとインド人の団体も多数来店し忙しいらしい。



コック担当:インドのデリー出身ラジェンドラ氏

いずれにしても遠いトルコの地で頑張っているインド/南アジア系の若者たちとヒンディー語でやり取りできたのは楽しかった。
posted by asiahunter at 03:55| Comment(0) | ■世界のインド人街から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする