2017年07月29日

UP州出身ギャンさん宅での家庭料理


先日印度料理研究会に行った折、北インドのUP(ウッタル・プラデシュ)州東部、ミティラー画で有名なビハールのマドゥバニにも近い町の出身のギャネンドラさん(通称ギャンさん)という男性インド人と知遇を得た。ベジタリアンで料理が趣味というなかなか珍しいタイプの北インド人男性で、UP州東部やビハール州の料理の話を聞いている内に次第にギャンさんの手料理をご馳走になる方向性に話しが向かっていく。インド料理は家庭の味が最上位なのでこうした機会に恵まれた場合、可能な限り無理をしてでも食べさせていただく事にしている。数名のインド料理好きな方々をお誘いして訪問する事となった。





行く前にチラッと聞いていたが、リッティ・チョーカーを出してくれたのには驚いた。まさかリッティが日本で食べられるとは。
リッティは西のラジャスタンではバッティとも呼ばれるアタやベサン粉で出来た硬い団子状のロティ。本来ならば乾燥牛糞のゆるやかな火でゆっくりと調理されるのが一番美味しいとされる。
チョーカーは東インドのバルタにも共通する、野菜数種をよく煮込んでドライなディップ状にした付け合わせでリッティにはこのチョーカーがだいたいセットになる。



それ以外に、
チャナーのダール
キャベツ・ジャガイモ・チャナのサブジ
プーリー
ウラッド豆のワデ
キャベツとキュウリのライタ
青唐辛子のチャトニ
クミンを入れたバターライス
をご馳走になった。



どれも非常に丁寧な料理され、油っこさや強目の味付けとは無縁の優しい北インド家庭の味。ギャンさんも多くのインド人同様、田舎のお母さんの料理が一番美味しいといい、趣味の料理もお母さんをお手本にしているという。北インドの田舎の家庭にごはんを食べに行きたくなった。



#インド人家庭でいただく食事シリーズ
posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月27日

オリッサ出身者宅でいただいたダールマー




とある用事を頼まれ、江東区大島団地在住のオリッサ出身者のお宅に伺う機会を得た。やや遅い時間帯だが晩御飯はこれからだという。






「オリッサ出身という事はダールマーなんかが晩御飯のメニューに上がったりするんですか?」と何気なく聞いたらビンゴだった。ちょうど鍋の中で出来立てのダールマーが湯気を立てている。






ダールマーに合わせるのはチャパティで、付け合せにインドから持参したというアムラのアチャールも食べるという。アムラは柑橘系の果物で、インドではアチャールの他色鮮やかなジュースの材料となったりする。和名はユカンというらしい。



インド人の台所に興味があるので写真撮っていいですか?とバシャバシャやっていると「ちょっと食べて行きますか?」と待っていた言葉が。インド料理は家庭の味が最上位なのでこうした機会に恵まれた場合、可能な限り無理をしてでも食べさせていただく事にしている

ダールマーは南インドのサンバルにも似た味わい。ドーサにも合いそうだが、オリッサにドーサは無いがピターという米粉を焼いた料理はある。そうした料理も家庭でよく作るという。アムラのアチャールも特有の酸味で美味い。素朴ながらも滋味深い味わいで、オリッサ料理への興味が更に増した。





#インド人家庭でいただく食事シリーズ
posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月10日

【ナマステ福岡への道 vol.12】旧コザ市のインド系衣料品店




ヒンドゥー寺院に集まっていたインド人たち(皆さん国籍はインドのままの方が大半)は、ほとんどが北中城の旧コザ市のゲート周辺で衣料品店を経営している。店名はインド、ボンベイ、サティーなどいかにもインドを連想させる名称が少なくない。ムンバイではなくボンベイであり、書体も含めて60〜70年代のレトロなインドがそのまま残っていて多少興味深い。











置いてあるのはいかにも一昔前のアメリカ人が好みそうな衣料品だが気の毒なほど客足が少ない。

ちなみにゲート通りとはかつて存在した嘉手納基地第2ゲートに至る通りだったことから呼称されるようになった名称。戦後の米占領時代から特にベトナム戦争時には多くの米兵が街中にあふれ、在沖縄インド人の商売も最盛期だったという。

景気は徐々に後退し、特に1972年の沖縄返還以降、流通していた米ドルから円への切り替え及び円高ドル安のあおりでアメリカ人の購買力の低下や賃貸料などの諸経費の高騰、近隣に巨大なイオンモールの出現などの影響で主にアパレル系の小売店を経営している彼らには厳しい経済状況が続いている。ちなみにこのイオンモールはイオンモール・ライカム沖縄という名称で、このライカムRycomとはかつてこの地に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)の略称である。










インディアン・テイラーのサンジャイ・サマーダーサニーさん。お店の名刺の他に、キリスト教の教会活動をしているという名刺をいただいた。名前はいかにもなヒンドゥー教徒だが、沖縄の第二世代は在沖縄のキリスト教系の学校に主に通っているためキリスト教により親近感を感じる傾向にあり中にはクリスチャンに改宗する人もいるという。また第二世代は第一世代よりも当然シンディー語の能力は低下しているが、コミュニティーとして特に学習会などを行うといった事はないらしい。




ゲートから少し離れたパークアベニューにあるインド雑貨を扱うインド屋のビクター(ヴィシュヌ)さんは以前娘さんに連れられてナマステインディアに来たことがあり、その際名刺も頂いていた。やはり客のいないお店を訪ねるとチャイを出していろいろと話してくれた。





ビクターさんも他のインド人同様元々香港で働いていたスィンディー・パンジャビーで(店の片隅にグル・ナーナクを祀る神棚がある)、その会社から派遣されて沖縄に来た。その後74年に友人たちと共にテイラーを開業したが友人たちが辞めたため一人となり、日本人も対象にすべくパークアベニューのアーケードができる82年にインド雑貨を扱うインド屋として形態を変更。その頃が最も景気が良く、4店舗構えていたしこの頃結婚したという。その頃は座るヒマも無い程の忙しさだったが、次第に景気も退潮して現在に至る。たまにインドに行って直接仕入れたりもするが昔ほど頻繁ではない。


ビクターさんからは他にスィンディー系のオーナーが経営するインド料理店や彼の友人が経営するインド料理店を紹介してもらった。「あそこのオーナーはいい人だから食器も買ってくれるよ」など優しいアドバイスもいただいた。
posted by asiahunter at 20:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.11】在沖縄インド人宅でのランチ


ヒンドゥー寺院に月曜午前に集まったインド人たちは程なくして解散し、それぞれ自分たちの経営する店に行き仕事を開始する。とはいえ皆さん自営業かつ高齢で、また店も忙しくないので割とのんびりとしている。

キドワニさんにバジャンの後いろいろ話しを聞いていたらそろそろ寺院を閉める時間だという。まだまだ聞きたい事があるのに…というのを察知してくれたのか「続きは自宅に来てナシュタ(軽食)でもしながらしますか?」と言ってくれる。見ず知らずの外人のオジさんに対するこの温かい対応。皆さん日本語も堪能なのにあえてヒンディー語で通していたのが功を奏したのかもしれない…。



軽バンの後を付いて行って彼らのご自宅へ。5階建てのやや古いマンションで、玄関前にはカレーリーフとタマリンドが鉢植えされていた。アーンドラ料理にタマリンドの葉も使うという、こないだ知ったばかりの事を確認すると数枚千切ってくれ、じゃあ食べてみなさいという。食べてみたら特に酸味はなく葉っぱの味だった。





旦那さんとスィンディーについて、また沖縄のインドコミュニティについて、彼らのような旧世代とITエンジニアなどの新世代とのギャップなどについてetc 話題が尽きなかったが、そろそろ最も目当てにしていた家庭料理の準備が出来たようだ。





まず薄切り食パンの上に無造作にチャナーのカレーがかけられる。辛いのは大丈夫か?と聞かれるが程よい辛味。食パンを食べ終えるとライスはどうかとすすめられ、タッパーに保存しておいたカレラ(ゴーヤ)のサブジ、ダール、ミント・チャトニも出してくれ、さらにチャパティまで出してくれた。







こうした家庭料理は当然ながら全て美味く、こういう機会に恵まれただけでも沖縄に来た甲斐があったと感じさせられた。







周囲は道の至るところに半ば朽ちかけたバナナの木を目にする。
葉っぱだけでも欲しくなり、レンタカーを置いて思わず駆け寄ってみる。


posted by asiahunter at 07:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.10】沖縄ヒンドゥー寺院


到着翌朝、1985年に設立されたという沖縄ヒンドゥー寺院へ向かった。
毎週月曜はグル・グラントサーヒブなどスィク教グルへのバジャンを唱和している。実はこの月曜の集まりを見物するのが目当てでやや急いで沖縄inしたのだった。





ここに集まっているのは主に旧コザ市のゲート地区で衣料品販売しているスィンディー・パンジャビーの人々である。皆さんかなり高齢化している。バジャンの集まりは毎週あるが、年間に行われる行事で大きなものはディワリとスィンディー正月であるCheti Chandである。こうした時には料理も併設のキッチンで調理され出されるという。








 ↑撮影したバジャンの動画

現在の寺院が出来る以前の参拝や宗教儀礼はどうしていたかというと、有志4人で費用を出し合い1970年代は嘉手納の方で部屋を借りて祭壇を作ってそうした行事に当てていたという。

その後1985年にこのヒンドゥーマンディル(ヒンドゥー寺院)は、在沖縄スィンディーコミュニティー・メンバーやその他国内(横浜/神戸)のスィンディーコミュニティー、またインド各地のスィンディーコミュニティーからの寄付金などを募って設立された。元々は外国人向けの賃貸住宅であったものを買い取り、玄関の上に寺院らしくドームを施し、外装も北インドの寺院によくある肌色のペイントを施している。



集まっているスィンディー・パンジャビーという人たちは、多くは現在パキスタン領土内のハイデラバード出身である。信仰はスィク教を信仰していて、この日のバジャン(神様への献歌)もグル・ナーナクなどのスィク教の神に対するものだったが、あくまでヒンドゥーであり外見的にターバンや腕輪などスィク教徒を特徴付けるものは身に付けていない。

2002年に訪問した東京スィク寺院の様子
2015年に訪問した神戸スィク寺院の様子

彼らの多くは沖縄返還前に主に香港から渡って来た人たちである。最初から現在のような自営業ではなく、主に香港ベースのアパレル系企業が沖縄に支店を構えるのに伴い来日している。ちなみに当時の月給は35ドルだったらしい。それらのアパレル企業は撤退したり閉鎖したりするのに伴い店舗を構えて独立している。独立した時期は人によってまちまちだが沖縄返還後の70年代が多い。当時は対ドルレートも良く多くの従業員を雇っていたという。彼らの店の多くは旧コザ市のゲート地区に今もあるが、ここ数年はかなり景気が厳しいらしい。





集まっていた方々の名前を聞くとマノーハル・パンジャービーなどファミリー・ネームがパンジャビーという人がいる。パンジャーブ州の人にもそのような名前は無いのにスィンディーのスィク教信奉者がそのような家族名なのが興味深い。そしてまたスィク教信奉者でありながらヒンドゥー教徒でもあるらしい。こうした信仰の形態の人々に触れる機会が無かったので非常に新鮮だった。

彼らはまた来日当初の商売上、アメリカネームを持つ人が大半で、上記のマノーハル氏はマイク、シェーワク・キドワニ氏はサムといった具合だった。アメリカ人向けに呼びやすい名前にしないと仕事に差し障るらしい。


壁のインド地図を指し示しながら自らの出自などを丁寧に語ってくれたマノーハル氏

シェーワク氏の奥さんでバジャンの陣頭に立っていたラジャ二・キドワニさんのアメリカネームは無い。米兵相手のビジネス上のものだから専業主婦の妻にはアメリカネームは無い。



掲示板に貼られていた年間祭礼スケジュール

posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月09日

【ナマステ福岡への道 vol.7】北九州ギタンジャリ


広島の山奥で美味しいランチ・ターリーを食べた後、ディナーは北九州のギタンジャリで食べる予定にしていたので車を飛ばす。渋滞も無くほぼ予定通りの時刻に到着し、早速お店へ。



ギタンジャリは東京でスパイス活動をされている安松さんからのご紹介。初訪問だがオーナーの下野さんは去年のナマステインディアなどでもアジアハンターをご利用いただいていた。改めてご挨拶し、下野さんがお店を持つに至ったバイタリティーあふれる経緯や北九州に於けるインド料理事情といった話を興味深く伺った。メインのコックさんもインドやドバイで長年勤務したベテラン。



やがて北インド風のターリーが運ばれて来た。ネパール風骨つきのマトンはマトンがゴロゴロ入っていて美味い。





元々インド/アジア雑貨のお仕事をされていただけあって店内は所々アジア雑貨が散りばめられた可愛らしい内装。特にトイレの戸にशौचालयと書いているのが気に入った。







食後は店の横につけた車から商品を取り出して臨時の販売会をさせていただいた。こうして行商したり営業しながら道中進むことが出来るのもアジアハンターの特徴である。



posted by asiahunter at 05:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.6】広島県プラシャンティ


広島県の人里離れた山奥に半ば自給自足的な生活に身を置きながらインド料理を出している仙人のような人がやっているお店がある…という話は数年前に複数のカレー関係者から聞いていた。その手のうわさ話にありがちな、誇張や虚実入り混じっているのだろうが、首を捻りながらも好奇心を掻き立てられるお店ではあった。










そんな里山のインド料理店プラシャンティに初訪問。ナマステ福岡に出店するという機会でもない限りまず訪問する事は無かったので、やはり思い切ってナマステ福岡に出店申し込みをして良かったと改めて感じた。







山の細道をナビ通りに進むが周囲には店らしき店も無く、まさかこんな山奥に…と不安に感じたその時、店は忽然と現れた。店主ご夫妻に暖かく迎え入れてもらいあらかじめ予約しておいたシャンティ・ターリーを頂く。ちなみにこのシャンティ・ターリー他はオーダーするのに最低2名様からとなっている。従って今回カレー編集者の島田さんが同行してくれて本当に助かった。








丁寧に作られた、7〜80年代の古き良き『印度料理』や『印度カリー』といったテイストのターリー。よく考えたらこういうインド料理は久々に食べた気がする。自家製野菜をふんだんに使ったサラダ、チーズの入ったサモサ、カバブなどのタンドール料理、プラウンマサラ、キーマ、チキン・カレー、チャナー・マサラetcを堪能。尚、店主の辻さんは里山に来る前は福山市で20年ぐらい営業されていたという。








国産で発注した壺に、外部の耐熱用の囲いを自作し、タイルも自ら貼ったという可愛らしいタンドールも見せてもらった。見た目はいい感じに使い込まれていてインド的な風合いも醸し出している。こういう可愛らしいタンドールは客に見せるように設置するといいと感じた。








食後のチャイを飲んでいる時、こないだケーララのコチに長滞在して料理修行されて来たますやの相原さんが尾道からバイクでやって来てケーララの話を興味深く伺った。営業してたらますやさんにも立ち寄りたかったが、次回修行でパワーアップした料理を楽しみにしたい。
posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月08日

【ナマステ福岡への道 vol.5】岡山インド家庭料理ミレンガ






インド家庭料理ミレンガさんもオープン時に食器などお世話になった店で前々から機会があれば訪問したいと思っていた店。ここを訪れた何人かの知人の方々が店内の様子などをFBにアップした際、食器が店内で料理用の提供用だけでなく棚に陳列して販売もされていることも知ってますます興味が湧いていた。







夜20時頃に入店。日本語堪能なホール担当のネパール人(ネワールの方)が案内してくれる。ちなみに昼に行ったパイシーパイスさんからは厨房にアーンドラ出身の女性がいると聞いていたが、彼女は夜の分の仕込みをしたのち夕方5時頃上がるという。夜は同じくインドのハイデラバード出身の学生アルバイト、なぜかウズベキスタン出身のアルバイトの人たちがそうしたカレーを温めて出したり、簡単な調理は彼らもするという。この内ハイデラバード出身の学生アルバイトはオープン当初から勤務していて、調理担当のアーンドラ出身女性は彼と一緒に店で働いていた仲間のお母さんらしい。しかしアーンドラ出身女性が厨房に入っている店などあまり聞いた事が無いので是非お会いしてみたかった。








店内にはムスリム用のお祈り部屋があったが特にオーナーさんがムスリムという訳ではないらしく、またお客さんの中に実際にここに入ってお祈りする人も居ないとの事なので実際的なものというより装飾的な目的なのかもしれない。インドのローカルな食堂を彷彿とさせる非常に味のある店内や棚の調理器具や食器などを眺めたりする内に綺麗に盛りつけられたターリーセットが到着。マトンカレーがやや油多めで美味しい。ダール、サブジー、ライタや小さなイドゥリも入っている。ターリー内のおかずやライスはそれぞれ量を増やしたり追加出来る。ライスとチャパティ100円を追加。チャパティは出来立ての美味しいのがガラス張りのタワ室で焼かれる。個性的なお店で面白かった。




posted by asiahunter at 11:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.4】岡山パイシーパイス


朝8時頃浜松を出て約4時間弱、京都も大阪も神戸も素通りし急ぎに急いでお昼過ぎに岡山到着。お昼に岡山にどうしても到着していなければならない重大な理由があった。



今年2月にオープンしたばかりのパイシーパイスさんには何度か食器の件でお世話になっていて、岡山に行ったら是非ご挨拶かたがた食事をしたいと思っていた。店主の奥様が綴られているブログも興味深く拝読し、旦那さんはケーララの出身である事やお店ではケーララのミールスを出しているとの事前情報に心躍らせていたが、営業時間がランチのみとのことで、これは何とか間に合わせなければと、それで急いだ次第である。

1階はカウンター、2階は畳の部屋になっている。少し遅い時間だったがカウンターはほぼ満席。一人2階に上がらせてもらった。





オーダーはスペシャル・ミールス。ココナッツの風味のチキン、サンバル・ラッサム・パリップなどケーララテイストが優しく美味い。 #ちなみにこのインド食器はアジアハンターでお求めいただけます





旦那さんのシャビさんはケーララのマラバール地方、マッラプラムの出身で家系的にアラビア系商人の末裔という、由緒ある家柄のご出身。特にマラバール地方のマッラプラムは古くからアラビアとの交易が盛んで、その際にもたらされたアラブ語(アラビ・マラーヤラムと呼ばれる)で記述された叙事詩や歌などが祭礼や婚礼の場で吟じられるが、こうしたアラビ・マラーヤラムを読める人自体が少ない。彼のお父さんはそれが読めるという。またモプラ料理(=マラバール料理)の話など興味深く伺い、カイマライスという、マラバールに於いてビリヤニのみに使う米で作ったビリヤニ・イベントも行いたいという。近ければ是非はせ参じるのだが…



posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月07日

【ナマステ福岡への道 vol.3】静岡大タミル人留学生宅でミールスとファルーダ

浜松に立ち寄ったならば、えりカレーとして幅広くスパイス活動されているスパイス系重要人物・菅沼えりさんを素通りする訳にはいかない。最近えりさんは静岡大学の南インド留学生複数とイベントを通じて親しくなり濃密に交流しているらしい。そしてアジアハンターの浜松行きにあわせて彼らの自宅で南インド家庭料理ディナーパーティーを企画してくれることになった。



ディナーパーティーは約10人ほどの南インド人が大学近くに居住する南インド人のアパートの一室に集結してスタートした。アーンドラ州グントゥール出身のJeevanさんご夫婦を除き全てタミル人男女という構成。しかも中にはモハメッドさんというタミルナードゥ州South Arcot出身のムスリムも一人いて人員バランスが実に良い。挨拶かたがたモハメッドさんと話していると同地はビリヤニも有名でイカも食べるという。そんなSouth Arcotの話を聞いているとどうしても実際に行きたくなってきて仕方なくなる。









調理段階から家庭に入れさせてもらい皆さんと歓談しながらインド料理情報を聞き食べるという、最も理想的なディナーパーティーだった。特にアーンドラ出身のJeevanさんご夫婦には料理が出来るまでの長い間延々とカキナダやラヤラシーマといった湾岸〜南アーンドラの料理についてレクチャーしていただき、去年のアーンドラ食旅でのいろんな疑問が払拭した。







事前の料理打ち合わせで何か料理リクエストがあるか聞かれたので、こうした場合ベジ料理に集中しがちなのに一抹の不安を感じてコーラウルンダイ Kola urundai(マトン揚げ団子)をリクエストしていた。そしてこういう時のためと思い懐にしまい込んでしたバナナの葉風・紙皿をおもむろに取り出し敷き詰める。その上に、以下の料理が並べられていった。 #するとどうだろう劇場







【この日準備されたメニュー】
パニヤラムpaniyaram
コーラウルンダイ Kola urundai(マトン揚げ団子)
プラウン・ビリヤニ
白ライス
ダール
タイル・パチャディ
メドゥワダ(えりさん作)
ココナッツチャトニ
ペラサットゥ(アーンドラの方作)
チキン65
フィッシュ・フライ











圧巻はタミル出身のTariniさんの作った食後のファルーダ。これもえりさんがダメ元でリクエストしてくれたもので、作るのが初めてと謙遜していたが、今まで日本で食べたファルーダの中で一番オリジナルに忠実だった(うどんは論外として 笑)。緑色に着色されたバミセリがいい色合いのアクセントになっていて素晴らしかった。えりさん、お集まりの皆さんには大感謝の夜だった。




posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月06日

【ナマステ福岡への道 vol.2】浜松モスクでインドネシア自炊ランチ

福岡までの道はあまりに遠い。とりあえず3時間ほど車を走らせ浜松に一泊することにした。浜松ではえりカレーとして熱心なカレー活動を続ける菅沼えりさんから魅惑的な招待も受けている。毎回神戸で開催されるインディア・メーラーに出店する際浜松に立ち寄っているが、いつも趣向を凝らしたインド料理やイント的イベントなど企画してくれるので楽しみで仕方ない。

2016年の浜松での楽しい思い出
【関西インド紀行vol.1】浜松えりカレー野外宴 
【関西インド紀行vol.2】浜松Al-Rehman及び浜松モスク

2015年の浜松での楽しい思い出
浜松えりカレーさん

浜松に到着したのが14時過ぎ。お腹が減っていたのでランチは去年も訪問したAl-Rehmanで食べようと思い、確認のため到着前に何度か電話したが着信は鳴るものの誰も出ない。一抹の不安に駆られつつ、近くの浜松モスク(Mohammadi Mosque)の駐車場に車を停めて直接お店に行こうと車を降りると、そこにたまたま一台の車が駐車場にやってきた。





降りてきたのはこれからナマーズをすると思しきパキスタン人男性。これからAl-Rehmanで食べようと思ってるんですよ、と言うと「今、あそこの店主はパキスタンに里帰りしてて、代わりの人が来るけど基本的にお店がオープンするのは午後5時からだよ」と教えてくれた。そんな予想はしていたがAl-Rehmanで昼食のアテが外れた…

とりあえずモスクの中で次の手を打とうと入っていくと、ブルーシートを広げた一団がたった今食事を終えた感じで佇んでいる。挨拶もそこそこに思わず彼らの皿の中を凝視すると、中の一人が「食べますか?」と優しく微笑みながら言う。その言葉を待っていたがあくまで「ええっ、いいんですか?」と意外そうな感じを演出(笑)。それにしてもどこの馬の骨とも分からぬ初対面のオッさんに昼メシを提供してくれようとは…。ムスリムの慈悲深さを改めて実感。





この一団は40日の予定で日本を観光しているシンガポール国籍の方々。福岡から浜松まで各地のモスクに宿泊しながら旅を続け、明後日帰国するという。出していただいたのは生姜の効いた野菜スープとライス、ソーセージ炒めと魚のフライ、インドネシアの辛いジャムのようなもの。シンガポールの話題で何か喋ろうと思ったが、ムスタファやリトルインディア以外ほとんど知らない事を改めて認識した。









その後入れ替わり立ち替わり何人かのムスリムの方々が出入り。そのうちバングラデシュ出身の方が浜松市内のパキスタン人経営のレストランを事細かに道順含めて教えてくれた。(その後FBのコメント欄でSasakiさんからAl-Rehman、カレーやさん、ニュータンドール以外に、サリマ、カシミールというパキスタン人オーナー店があるという情報もいただく)やはり浜松は奥深い…。







旅の初日にしてあたたかい人情に触れ合うことが出来、旅の良さを改めて実感した浜松の昼だった。
posted by asiahunter at 04:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月05日

【ナマステ福岡への道 vol.1】プロローグ

それは去年(2016年)のナマステインディアでの事だった。
一人のインド人青年がアジアハンターのブースに現れて、流暢な日本語でナマステ福岡というイベントを去年はじめて福岡で開催した由を語ってくれた。ナマステ福岡の名前は既にカタオカさん他、福岡在住の南アジア情報に精通された方々からその名は聞いていて、その出店に関しても思う所があったのだが、まさか主催者の方からコンタクトしていただくとは。ちなみにそのインド人青年がナマステ福岡主催者のジャイクマールさんであった。

数年前から都内の目端の利く一部のネパール人経営者たちの口からこぞって『福岡』の二文字は聞いてはいた。一体首都圏にインドレストランを経営する彼らがなぜ遠く離れた福岡に着目しているのか前々から気にはなっていたが、その様子を初めて去年(2016年)の9月に目の当たりにすることが出来た。

2016年福岡での文化賞受賞のためインドの映画音楽監督/作曲家のA.R.ラフマーンが来福。たまたまこの授賞式典の公募に申し込んでいたら席を確保出来た。ラフマーンは90年代から数限りなく見てきたボリウッド映画で耳なじみの高いボリウッド界随一の音楽家で、当然こちらの授与式/ミニライブにも関心はあったものの、それと共に前々から関心のあった福岡ネパール系の実態を確認すること、むしろそれが主目的だったと言っても過言ではなかった。

この当時まだナングロの福岡支店は完成してしなかったがソルマリの支店は稼働していた。他にも在福岡ネパール人留学生たちのたまり場であるブッダや在福岡ネパール人が主に居住している箱崎周辺のネパール食材屋を訪問し、胎動する原初のネパール・コミュニティの確かな存在を確認した。

【福岡インド紀行vol.5】大橋ソルマリ 
【福岡インド紀行vol.6】ブッダ 
【福岡インド紀行vol.3】東区箱崎周辺のネパール系食材店 

とは言え揺籃期〜勃興期に至る福岡に於けるネパール・コミュニティの様子は再度、目撃する必要を強く感じていた。正にその矢先に降ってわいた「ナマステ福岡・出店話」。2016年に目撃した時と翌年のナマ福開催までの間にどのような展開・変化が福岡ネパールシーンに生じているかも気になる所。またイベント出店となると車での移動となるが、むしろそれを利用して西日本各所のインド料理屋さんを回る事も出来る。そうした訳で一も二もなく出店話に飛びついたのだった。

ナマステ福岡が開催されるのは2017年4月15日と16日。去年開催されたナマステ福岡は土曜がネパール人を中心としたバイサキ・メラで日曜がナマステ福岡だったが今年からは何らかの事情で週を別にして一週間前の4月8日9日がバイサキ・メラだという。どうせ福岡に行くのならばこれにあわせて行きたい。そしてまた車で一気に福岡まで行くのは体力面・気力面で一抹の不安があるので犀の角のようにのんびりと、途中の街に立ち寄りカレーを食べながら道中進んで行こうと道中のプランを練った。そして春うららかな陽気のこの日、正に旅立ちにふさわしい曇り空の中、ハイエースにいっぱい商品を詰め込んでボチボチ出発することとした。

posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月30日

神戸・グル・ナーナク・ダルバール

今年もまた神戸市中央区野崎通のグル・ナーナク・ダルバールへ。
住宅街の中に忽然と現れる寺院。周囲に溶け込んでこそいるものの、こうした日常の中に突如として現れる『インド』に神戸という街の特異性を感ずにはいられない。



寺院内にはキールタン(神に捧げる歌)奏者が三人居た。これは去年の訪問時もそうだったが三人で一組らしい。一番年配の方は詠歌担当でRajwinder Singh氏、隣はタブラ奏者のAjmeet氏、一番若いのが19歳のマンモーハン氏でハルモニウム(パンジャブ語でバジュ)担当。彼とはFB友達になった。





ちなみに彼らは観光ビザで来ているので、任期は最長でも半年である。彼らを招へいしたのはこの寺院の世話役であるJagdish Alola氏という大阪船場で繊維商をやっている印僑の方。彼らのように海外の寺院で働きたい吟詠奏者は人づて、あるいは最近手はインターネットなどを通じて自ら海外のスィク寺院関係者/寺院世話役などに売り込むという。

タブラ奏者の彼に聞いたら流派やレパートリーが無いのでキールタン以外は出来ないが、スキルさえあれば普通のタブラ奏者としてセッションなども出来るし、宗派の上からの制限もない。キールタン奏者上がりのプロ・タブラ奏者もたくさん居るらしい。










活動内容は日曜日午前11時から行われる、スィク教徒の信仰対象である『グル・グラントサーヒブ』への礼拝儀礼に付随するキールタンの吟詠が主。それ以外は取り立てて仕事は無いらしい。約40人ほどが集まる日曜日礼拝に於けるドネーション収入も大きな収入源という。







日曜日の礼拝儀礼後、13時ごろからはランガル(集団共食)があり、日本人お手伝いの方が来て菜食料理を作るという。台所には炭酸やハイミーと書かれた調味料入れも置いてあり、昭和40年代の日本の台所を彷彿とさせる。お手伝いの方は年配との事である。ランガルにも来るように誘われたが、こうした化調風味のランガルがどんな味なのか気になる所だ。

二階にグラントサーヒブがあり誰でも参拝可能。ただし全世界のグルドワーラーと同様、寺院参拝には髪の毛を覆う布を巻かなければならない。
posted by asiahunter at 09:30| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神戸ジャイナ寺院

昨年に引き続き神戸ジャイナ寺院にも久しぶりに参拝(中に入れて頂くのは2002年以来)。
荘厳かつ重厚な寺院外観には何度来ても圧倒される。ちなみに表書きには参拝時間の記載があるが、ブザーをならすと人懐っこい感じの司祭が気軽に招いてくれる。ただし日本語での会話は若干難しそうである。







プージャリーはジャールカンド州出身でアーメダバードのスミラティ寺院に18年居たというKajal Majee氏。アーメダバードのオススメ・ボージャンシャーラー(飲食施設)など重要情報を教えてもらう。巡礼者用の宿泊施設をダルムシャーラーというが、飲食施設をボージャンシャーラーというとは初めて知った。




朝のプージャーで使用するという、白檀の塊を石臼で削り水に溶かしたもの。




寺院はシュヴェーターンバラ派(白衣派)のもの。ディガンバル派(空衣派)の寺院は無いらしい。朝と夕方に毎日プージャーが行われ、40〜45家族程が最大で訪れるという。朝のプージャーには白檀の塊を石臼で削り、水に溶かして神像に付ける儀礼も行う。






今月行く予定にしているアーメダバードの情報などもいろいろと教えていただいた司祭のKajal Majee氏。
寺院ではプージャー以外に仕事がなく時間を持て余し気味のご様子だったので、インディアメーラーにもお誘いした。(来なかったが)
posted by asiahunter at 09:08| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月02日

タミル男子のドーサイ

先日、あるタミル出身者のお宅にて夕食のご相伴に預かる機会を得た。彼らはタミルナードゥ州出身の若者たちで、三人で一つの2LDKに住んでいる。家財道具も少なく至ってシンプルな生活をしている。

夕食も至ってシンプルで、この日はプレーンのドーサイのみだという。私が訪問した時点で既にドーサイ生地とチャトニーは出来ていて、あとはドーサイ用のタワで焼くのみだという。三人のタミル人たちはそれぞれ得意分野ごとに役割分担していて、ドーサイを焼くのが得意な人、チャトニーが得意な人、などそれぞれ割り振られている。


左がドーサイの生地。右がドーサイ用のタワ


ドーサイ生地には地元タミルから取り寄せたウラッド豆と米で作る。
ウラッド豆にはタミルから取り寄せるこだわりがありながら、米は山形県産のものを使っていた。特に山形県産でも問題なく美味しく出来るという。


生地をタワの上で薄く延ばし、少量の油をかける。


だんだんと焼けてきたら、ひっくり返す。

 
薄いので焼きあがりも早い。


どんぶりになみなみと作られたチャトニー。
カレーリーフやマスタードシードなどが入り、大変美味しい。

インドの家庭で食べる際は、一枚一枚焼けたものをポンと皿に載せてくれる。北インドではこれがチャパティになり、南インドではドーサイになる。作り置きして積み重ねたものを食べるのではなく、作っている人のすぐ横に座って一枚食べ終わると皿に載せ、また食べ終わると皿に載せるというワンコそばな感じがインドの一般家庭に於ける食事スタイルである。尚、作り手は大体女性の役割になっているが独身の若い男性でも十分そつなくこなせている。食のスタイルからか、台所に立つ事が苦にならないインド系の若い男性も少なくない。

プレーンのドーサイのみの夕食など最初こそ物足りない気もしたが、食べ続けると当然腹は膨れ、大変満足した晩ご飯になった。
posted by asiahunter at 19:58| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月29日

押入れの中の神様

先日、ある北インド出身A氏の住むアパートを訪問する機会があった。
インド人の中でも、以前当ブログにて紹介したように、特に信心深い人たちはドアなどに神格勧請用のコーラムや足型・シール・紋章など様々なアイテムが並べている。

そんな人たちは部屋の中にも小さな棚などを設え、おのおのが信じる神格を祀っている場合が多い。A氏もそんな一人だが、その規模が群を抜いていた。

夫婦二人で決して広くない2LDKに住んでいるのに、押入れの上段片面全部を使って大きな神棚にしてしまっていたのだ。夜になると青白い光が輝きだし、ややもすればおどろおどろしさすら感じさせる、正に神秘の世界。
↓クリックして拡大してください。

ph-1

posted by asiahunter at 19:56| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月09日

ディワリーat大島

11月5日が今年のヒンドゥー暦に於けるディワリー祭日だった。
この日の近辺に、関東でも複数箇所でディワリー祭を祝う在日インド系主体のイベントが開催された。こうしたイベントはICATが主催するイベントを除いて、数年前から個人宅などでごく内輪向けに開かれていたが、参加人数の増加に従って公団の集会所→公民館の一室→イベント施設の中〜大ホールへと徐々に拡大し、拡大に伴いかつては限定された地域でのみ開催されていたものが次第に複数地区でも行われるようになりつつある。

ここ数年の傾向としては、なじみのインドレストランから食事をケータリングし、ブッフェ形式で食事を並べ、出し物としては子供の歌や踊り(ここ数年、在日インド系の人々によるボリウッドダンス指導なども増えた)など。基本的にはヒンドゥー儀礼に名を借りた異国での懇親会が主目的なので、ステージプログラムもイベントとしてのショーというより学芸会的なノリという印象が強い。しかしイベント規模の拡大と共に、近年本国からプロのパフォーマーなどを呼ぶケースも増えている。とは言え在日ネパール人のように定期的にプロのショー・パフォーマーを招聘し、純粋にそれだけで興行させるまでには至っていない。しかしある程度在日インド系が定着したら、今後そうした動きも当然出てくる可能性はある。
ヒンドゥー教系の祝祭はアルコール無しなので、例えば在日ネパール人たちのイベントに付き物の、酔っ払ってケンカなどといった事は皆無である。但しイベント終了後の飲食物・使い捨て食器・出し物に付随する紙ふぶきなどの散らかり具合は想像を絶する場合もある。

↓は今年7日に江戸川区のさくらホール内多目的ホールにて開催された、江東区大島〜東大島周辺在住のインド人たち主導によるディワリーである。かなり規模が大きく、4〜500人ほどの動員があった。




↑会場入り口にはスポンサーのポスターが並ぶ。

↓ケータリングを担当した葛西の南インドレストラン「和印道」でのプーリー調理風景。
 


 



posted by asiahunter at 06:14| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年05月30日

インドレストランを持つという事

親しくしているインド人に、某インドレストランにマネージャーとして勤務しているS氏がいる。
現在、約8年ほどの滞日歴になるというS氏が持っているヴィザのステイタスは調理師技能者用の就業ヴィザである。このヴィザで当初申請〜取得したインドレストランの厨房でタンドール係りとして数年勤務し、その間に日本語をある程度マスターした。この辺が彼が他のインド人コックと違うところで、調理師技能者用の就業ヴィザを持っているインド系・ネパール系の人々は(同国人中心でコミュニケーションよりも技能が求められる)職場環境的にも(オーナーが借り上げたアパートなどに単独または複数で生活しているため)生活環境的にも外部の日本人と接する必要性が少なく、語学をマスターしようとするインド人コックはむしろ少ない。長期滞在するうちに日本人異性と付き合うようになったり、いづれ独立して自らの店舗を持とうと思ったりといった必然性がなければ、全く日本語を使う必要のない環境にいる彼らは、たとえば5〜6年も日本にいるのに殆ど会話不自由な人も少なくない。
ただS氏の場合、そうした必然性や打算からというよりも純粋に日本への関心、たとえば勤務休憩時間に店のテレビで見る相撲観戦や夜、帰宅してから見るプロ野球ニュースや深夜番組などがきっかけとなって徐々に覚えていった。西ベンガル州出身の彼は、少年時代から兄に連れられチェンナイやハイデラバードなど南インドの飲食店でテーブル掃除ボーイからキャリアをスタートさせた。タミル語やテルグー語など南インドの言葉もこうした勤務の中で覚えざるを得ず、インドの主要言語は大体分かるというその言語理解能力はこうした環境で身に付けていったものなのだろう。こうした人はインドでは決して珍しくはない。


こうして厨房もこなせ日本語もマスターしたS氏は重宝がられ、勤務店を変えながら更に高い給料を求めてゆく。勤務店を変える事は更なる見識・経験を積む上で調理技能者にとって必要不可欠である、というのが彼の持論である。
そして行き着いた先が現在勤務している某店舗。そこでいくらもらっているのかなどといった野暮な事は訊かないが、世間話しをしているうちに、彼が今月はじめにとあるインドレストランのオーナーになっていた事を知って驚いた。立場的には就業ヴィザを持って雇用されている正社員マネージャーである一方、飲食店オーナーとして自らの店も持ったからだ。通常、規則の厳しい日本の企業の場合こうした副業などは禁じられているが、たとえば都内の外資系で働くITインド人の中に自らの飲食店や食材店を持つ人もいて、外国人の雇用主の場合、それほどうるさくないのかもしれない。ちなみにS君もオープン前にすでにオーナーの了解は得ているという(コックやウエイターなど他の従業員には教えていないが)。他にも知り合いのネパール人で長年とび職人として建設現場で働きながら開店資金を貯め、都内某所にインドレストランをオープンしたものの、接客業が苦手なので一切店には出ず、相変わらずとび職人として現場で働いているような人も居る。


(写真と本文は関係ありません)

店舗に関しては、元々都内某所にあるあまり流行っていないインドレストランを居ぬきでそのまま受け継いだ。金がかかるという理由もあって看板(店名)もメニューもすべてそのまま前の店のを使っている。同じインドレストランなどで、時々急に味が変わったりするのはこうした理由もある。S氏は調理師技能者用の就業ヴィザという立場上現在の店舗のオーナーではあるが、表立っての経営という形は今のところとれない。調理師技能者用の就業ヴィザから経営者用のヴィザへと書き換え必要があり、現在それは行政書士を通じて行っている。驚いたのは経営者用のヴィザを所持するためには、自らの会社を設立する必要もあるのだが、設立費用として500万円が銀行口座に入っていなければならない。もちろんS氏にはそんな大金は無いが、あくまでも申請のための見せ金であるので行政書士がこうした金を一時的に貸し付ける。その際に5万から10万の利子というか手数料を取るらしい。現在も不動産業者と賃貸契約関係にあるのは前のオーナーで、基本的には月々の家賃・光熱費などは前のオーナーに払っている形である。彼は基本的にあと数年で永住権が取れるので(正規の在留資格で10年以上継続して日本に滞在している人)、同国人の奥さん名義での法人設立を模索中である。永住権さえ取れれば誰に憚ることなく事業が展開出来る。

それにしても、外国人にとって非常に厳しい条件を乗り越えながら、果敢に日本で事業展開しようとする姿には頭が下がる思いがする。まず資格やヴィザといった行政面での大きなハードルがあり、次にアジア人オーナーには店や住居を貸したがらない物件所有者が多いという生活面でのハードルも高い。言葉や習慣の差といったものもある。インド人オーナーの店というのはそうした困難な道を潜り抜けてきているのである。

posted by asiahunter at 08:52| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月22日

秋の東北・景勝地巡り

10月10日〜12日という天高い初秋、東北の景勝地である秋の松島海岸〜会津猪苗代湖を在日インド系の人々と共に周遊する機会を得た。

10月10日(土)の深夜に我々は東京を出立した。この日、平和島近くの流通センターという大きなホールで「ディワリー」というインドの祭りが在東京インド人会(ICAT)主催で開催され、多くの在日インド系も来場していた。今回の旅行を共にするメンバーの一人NさんはこのICAT主催ディワリーのMCをやっている。デリー出身のNさんはまだ若い女性だがネイティブ並みに日本語が堪能であるため、在日インド系主催のこうしたイベント司会などでは欠かせない存在となっているらしい。翌々日の御徒町のグジャラート系宝石商を中心としたディワリーのMCもするという。

ちなみに本国インドのディワリーは北インドなどを中心とした大きな祭りで、この地域では米や麦といった穀物の収穫時期にあたるため、この収穫への感謝儀礼がのちにヒンドゥー教的に意味づけされ、豊穣をもたらすラクシュミー女神を称え勧請するようになった。ディワリーは汎(北)インド的に祝われるため地方性が少なく、ある種ヒンドゥー教の祭典を代表する祭礼といえる。このため本国はもとより在外のインド系の人々の間でもコミュニティー・イベントとして扱いやすく、『ディワリー at ●●』『ディワリー in ●●』といった形で世界各所のインド系コミュニティーの間で広く、この祭礼にちなんだイベントが行われるようになった。

さて、土曜深夜に都内を出立した我々は一路翌朝の日の出を松島で拝むべく車をかっ飛ばす。しかしさすがに午前3時を過ぎた頃、場所で言えば東北道の阿武隈あたりで眠気を催しだし、仙台を越えたあたりでかなりつらかったものの何とか日の出時刻までに松島に到着した。





しばらく日の出をありがたく拝んだ後、約50キロほど東にある島・金華山を見たいと、入念にガイドブックで調べてきた某インド人氏が主張、眠い眼をこすり金華山行きフェリー乗り場へ。フェリー乗り場へに近づくと船会社の客引きたちがいっせいに群がってきた。あたかもそこにしか停車出来ないようなしぐさで駐車場に車を誘導される。この強引さはインドの観光地と全く同じ。日本から来た多くのバックパッカーはインドの強引な客引きに辟易するが、実は日本国内にも強引な客引きは少なからず存在するのである。とは言えそのはさすがにインド人で、フェリー代金を値切っていた。




海岸の見える松林で休憩

その日の夜は予約していた福島で一泊。
晩ごはんは近くのインドレストラン。こんな事もあろうかとネットで調べてきて助かった。何せ皆ベジタリアンぞろいである。駅から程近い『インド料理マナズ・ラソイ』という店に入る。我々は総勢15名で、店内の大半を占拠したような形になる。



15人のうち二人だけマンサーハリー(非菜食主義者)が居たのでその二人とテーブルを共にする。本来、菜食主義者は非菜食主義者とテーブルを共にするだけで嫌がる。非喫煙者が喫煙者との同席を嫌うのと同様である。我々非菜食主義組は夜の食べ放題コースを指定。バッフェ形式でなくオーダー形式なのですぐに皿が空になるので、たった一人で給仕をしていたウエイトレスの方は大変だ。さらにインド人は注文が細かく、「氷無しの水に取り替えて」だの「サラダのドレッシングにレモンを追加してください」だの「小皿を何枚ください」だの、主張に何の遠慮・躊躇も無い。たとえダメでも言うだけは言うという大陸系の人固有の思考で、横で見ていて「かくあらねば」といつも強く思わされる一幕である。



翌日、福島市内を後にし、猪苗代湖に向かう。途中、既に山々は紅葉が始まっており、その紅葉を見るための車の渋滞がハンパ無いことになっている。やっとの思いで有料道路の展望台に着くとすばらしい絶景が広がっている。













有名な会津磐梯山も見ることが出来て感慨無量。
連休中は天気にも恵まれ、まさに行楽日和な3日間だった。
posted by asiahunter at 09:38| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月13日

在日インド系によるWall Art〜その@

撮影場所:江戸川区の公団
壁画の目的:ディワーリー(Diwali, Deepawali)前の女神勧請のため。(女神の目印)
備考:賃貸であるためドアに直接描くのは少数派で、ステッカーや紙に書いて貼る方が多い。






posted by asiahunter at 21:37| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

業務用グラインダー搬入

先日、知人の南インド人(テルグー系)某氏からの頼まれで、大井埠頭の東京税関まで船貨物の検疫&通関〜運搬の手伝いをした。

今回、インドから送られてくる荷物の大半はそのレストランで使用する食器類や調度品、中には巨大なガネーシャ像(入り口に飾るという)など重量級の混載荷物ばかりで、最も運搬に手こずったのは南インド式の業務用グラインダーであった。これはいわば電動式の石臼で、分厚いステンレスの囲いの中に重い石が三つも入っている。全体の重量は100キロ以上あるのではないだろうか。これを通関〜運搬など業者に頼むと少なからぬ額の費用が発生するだろう。出来る事は全て自分でやる主義の彼は私を伴って全ての手続きを苦労しつつこなした。

↑木箱で到着した業務用グラインダーを厨房に搬入。

↓大の男が三人がかりでやっと設置。

南インドの家庭でドーサイやワダーなどといった粉末食品を作るとき、多くの家庭では既製品の米粉や豆粉などを用いず、手動式あるいは電動式のグラインダーという機械を用いて粉を轢く。これは南インドでは伝統的に行われてきた家庭の習慣で、既製品より各家庭で轢いた粉の方がより美味しいという事は、南インド人にとって自明とされる。(尚、かつて主流だった手動式のグラインダーは手間がかかるものの、現在でも手で轢いた粉の方が味がいいとされている)
だだし、これを日本に置き換えると、例えばお好み焼きやたこ焼きを自宅で作る場合に、小麦粉の粉まで自家製粉してしまう事に等しい。いくらお好み焼きやたこ焼きにこだわりを持つ人々でも小麦粉製粉まで行わないだろう。この点、南インドの人たちの食に対する強いこだわりを感じる。


↑業務用グラインダー到着まで家庭用グラインダーで代用していた。
半日がかりで店内に器具・食器など運び込む。その合間にランチメニューを堪能する。サンバルがとても美味い。

(↑はランチタイムのメニュー。このうちDセット↓を注文)



(↑はランチタイム以外のメニュー)
二人居るウエイターのネパール人はもとより、経営者、テルグー出身のコックら二人も額に汗して運搬する。ただしこうした時もインドの女性は社会的慣習から、決して我々を手伝おうとはしない。これは今まで何度も同じような経験をしている。

(↑ネパール人のウエイターは南インド式のコーヒー攪拌方法にまだ慣れていない様子)

経営者の自慢は味の良さである。それを裏打ちする理由として、新規に雇い入れた南インドのコックは数日前まで銀座の某有名店で勤務していたコックである。
どのような勤務条件なのか知る由も無いが、一般的にインドレストラン業界ではこうした腕のいいコックの引抜など日常茶飯事で、中には数ヶ月単位でコロコロ勤務地を変わる者も居る。一般的に分はコックよりも経営者の方が弱く、メニューや仕入のみならず店の経営などまでコックが仕切る場合もある。経営者としては有能なコックを手放したくないので半分泣き寝入り的にコックの条件を飲むという話しも聞いた事がある。こうしたコックやインド系従業員のコントロールの難しさが店の経営を難しくさせていて、インド人経営者と言えども手こずる場合が多い。ましてや言葉や習慣の違う日本人経営者においておや。大半のインド系飲食業の失敗理由も要はこれである。
posted by asiahunter at 18:15| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年07月23日

在日ラタ・ジャットラ

去る7月12日、在日オリッサ人会(Odisha Community in Japan)の主催による、日本に於いて初めてとなる『ラタ・ジャットラ』が執り行なわれた。※ラタ・ジャットラに関する詳細はこちら 

 


インドでもテレビでしか見た事が無いので、是非とも山車を曳いている所を見たかったが、私がメイン会場に着いた頃には既に三郷市内を数キロ巡幸して戻ったあとで、会場のステージ脇に想像以上に立派な山車が鎮座していた。このラタ(山車)が一体、どのような雰囲気で三郷の街を巡幸するのか、はなはだ興味深く思っていたのだが。在日オリッサ人会の方にも「巡幸を見てないとは・・・オッホォ」と残念がられる。



関東周辺在住のオリッサ人が一体何人居るのか分からないが、少なくとも個人的に知っているのは西葛西などに数人ほどで、タミル人やマラティー人やベンガル人などに比べ在日インド人社会の中ではむしろマイノリティーではないかと感じており、祭りの規模も彼らのそれに比べて小さいのでは、と勝手に想定していたが、想定の範囲外の多くの人手に驚いた。しかし中に顔見知りの西葛西在住インド人が居たので聞いてみると「オリッサ出身ではない」との事で、ではなぜ参加を?と問うと、今回イベントの中でラーマクリシュナ・ミッションの方々のステージがあるので、という事だった。なので会場に沢山集まっているインド人が必ずしも全てオリッサ出身では無いとはいえ、この動員力にはある種の感動すら覚えた。



それにしても一体、なぜ祭会場が三郷なのか?
それはかつてURの三郷団地に複数のオリッサ人たちが居住していたからだという。とはいえ、たまたま祭会場を通りかかった、現在も三郷団地に在住するというネパール人によると、数年前まではインド人住民も多かったが、現在では大半が東京に移っていったそうだ。とはいえ往時に築いた自治体とのパイプによって今回の祭りも実現したのでは、と勝手に想定する。ステージには三郷市長も招待され挨拶をしていた。


ステージでは日ごろお世話になっているStudio Odissiの方々の舞踊がありビデオ係を担当。日本人によるインド舞踊が珍しいのか、会場内では小さなどよめきが起こっていた。



祭りの締めくくりは食事とプラサードの無料配布で、初めての試みにも係わらず盛況かつスムーズな進行で、だらだらと進行しがちなこうした在日インド系イベントとは一線を画す見事なものだった。

posted by asiahunter at 21:50| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月25日

ドゥルガ・プジャ

10月20日、品川区大井町駅近くの貸しホールにて在日ベンガル人主催のドゥルガ・プジャが盛大に執り行なわれた。

主催者の居住地の関係からか毎年この催しは大田区大森近辺で開催される。祭りの際に配られる冊子『Anjali』に今回、広告掲載の依頼があり承諾したのと、生後数ヶ月の赤ん坊を抱える知合いのベンガル人夫婦から車を出して欲しいという依頼があったため数年ぶりにイベント会場に足を運んだ。ちなみに、地元ベンガルでもドゥルガ・プジャの時期が近づくとこうした祭りをフィーチャーした小冊子が複数発刊される。そのほとんどがベンガル語による記述なので具体的な内容は不明だが、かなりな厚みがあり、祭礼の時期・手順など事細かに記載されているようであり、またこうした伝統はインドの中で最も活字に親しんでいるとされるベンガル人ならではと感じさせる。

今回のドゥルガ・プジャは元来カルカッタ出身の在日ベンガル人によって主催されたものだが、個人的に把握している限り都内近郊に於ける在日ベンガル人グループは三つの団体が存在し、それぞれ別個にドゥルガ・プジャを催している。そのうち特にバングラディシュ系ヒンドゥー教徒の主催するドゥルガ・プジャは非常に規模が大きく動員数も多いが、大田区を中心とする今回の在日ベンガル人グループは比較的規模が小さいと、数年前に一度訪れた時は感じたが、今回ホールを見てその動員数に驚いた。ここ数年IT系インド人の流入著しいが、その大半はタミル人、テルグー人、マラティー人で、個人的に知っている範囲のIT系ベンガル人はごく限られていたので、同イベントも小さいホールでアットホームな感じで行われるだろうという想像が見事に裏切られた。中規模のイベントホールはベンガル人で正に埋め尽くされんばかりの感があった。

ホール最奥には比較的大きなドゥルガー女神像が祭られ、集まってきた参拝にプージャリーからアムリタなどが饗され、その傍らではプラサードが配られていた。
この女神像はインドで製造され、本来は毎年河流しされるべきではあるが日本である為そうは出来ず、とはいえ三年に一度はリニューアルされ、新しい女神像が本国から(おそらく船便で)輸入される。

ホールの一角にはゴールガッパを配るテーブルが設えられ、女性や子供が大挙して群がっている。

外国に於いて行われる伝統行事がいずれもそうであるように、儀式の進め方は簡略化されてはいるが、それでも尚伝統に忠実であらんとする姿が垣間見れて清々しい気分に浸れるひと時である。尚、ベンガルに於ける実際のドゥルガ・プジャの展開・手順は以下のように繰り広げられる。(記したのは1998年)


アッシン月白分第
6日(シャシュティ)
―この日の深夜より司祭がマントラを唱えながら女神ドゥルガーを勧請する―
ドゥルガ女神はそれぞれのパラ(街区)におけるコミュニティーによって祀られる。コミュニティーとは分かりやすく言えば町内会であろうか。この町内会毎に女神像、及び儀礼に付随する諸々が準備されるのだ。この準備にかかる費用としてのチャーンダ(花代)はすべてのコミュニティー構成員から徴収される。人々が金を出し合って女神に来てもらうのだ。同じ目的に向かって作業を同じくすることでコミュニティー内の結束力も高まる。元よりカースト制度の支配するインドでは特に宗教的な局面において地縁的結束を見せることは非常に希である。聖地巡礼などでも同じカーストの人々が団を作っていることが大半である。そんな中にあってベンガルはカーストによる差別化の度合いが比較的薄いといわれる。その理由を英国支配下で成立した都市・カルカッタの自由で新進の気風に求める場合も多いが、そうではなく、以下の理由で元来ベンガル人が持つものであったと想像出来る。
女神信仰は再生されるものの力への信仰で、これをタントラという。再生肯定、ひいては現世肯定に結実したこの革命的思想は、この世を「苦」とみなしそこからの解脱を求めるという、それまで支配的だった現世否定の思想と対極の世界観を持つ。中世期のヒンドゥー思想、仏教思想はこのタントラの影響を色濃く受けている。豊かな恵みを与えてくれる大地を母に見立て信仰する。これがタントラ思想の端緒である。この思想を生み出し得た背景にはベンガルの豊穣がある。偉大な大地の前に人間の序列など取るに足りず、タントラが反カースト的思想であることの原理はその辺にあるのだろうし、ベンガルのドゥルガ・プジャが地縁結合のコミュニティーによってプジャを成立させている訳もその辺に求めてよいのかも知れない。

アッシン月白分第7日(ショプトミ)
―この日より正式にドゥルガ女神が降臨したことになる。事実上この日よりプジャは開始される―
市内に出現したバンダルを巡る。バンダル内には光り輝くドゥルガ女神像が鎮座している。夜になると竹組みに布地を張ったパンダルは内側からの灯かりで巨大な行灯のような発光体と化す。そのパンダルをする囲繞するようにしてさらに夜目に眩しい電飾のイルミネーションが展開されている。電飾は神話上の伝説から幾何学的なものまでありとあらゆるデザインを、色とりどりの小さな電球一つ一つで作り上げて構成されている。いたるところに巨大な発電装置が地響きを上げて回転しているが大群集の喧騒はそれをもかき消す。毎年、カルカッタではパンダルや女神像の美しさを競うコンテストが行われる。コンテスト上位常連の有名なパンダルの前は大混雑していて中に入るのに優に12時間かかることもざらである。 
一つ一つのパンダルに入ると、それぞれまったくスタイルの異なる女神像を見ることが出来る。こうした女神像はそれぞれのコミュニティーが職人に発注したものである。ベンガル最大の祭、ドゥルガ・プジャは彼ら職人にとって最大の稼ぎ時である。年と共にドゥルガ女神像の顔や服装も変化するが、それは顧客たるコミュニティーの意向によるものである。従って女神像のデザインや特に顔には流行があり、例えば映画女優に似ている場合もあったりする。また逆に古典的なスタイルを毎年注文する保守的なコミュニティーもある。
神像作りの工房の密集する街区、クマール・トゥリはカルカッタ市内北部、フーグリ河に面している。カルカッタは、その流入する人口によってその都度拡大してきた巨大な都市だが、クマール・トゥリのある一帯はカルカッタの中でも最も歴史が古い街区の一つであるという。クマール(クムバカール)とは陶工、トゥリとは絵筆を意味する。約400平方メートルという狭い街区の中に約200の工房があり、約2500人の職人が働いている。彼らはほぼすべてパール姓を持つ。これはチトラカール(絵師)カーストの名である。
神像の作り方は、まず竹によって骨格となる部分を組み、ワラで輪郭を付けていく。その上からフーグリ河で取れた粘土で肉付けていく。陰干しして乾燥させては再び塗り重ね、次第にふくよかな女神が顕在することとなる。この神像作りに用いられる良質の粘土は、カルカッタ周辺では既に取り尽くされていて、現在ではカルカッタより3~40km南下したウルベリア村において採掘され、舟によってクマール・トゥリ・ガートまで運ばれる。そこで採掘される粘土も近年枯渇しかけているといわれ、値が高騰している。粘土で形どられた神像には原色の彩色がほどこされる。この彩色には最近では化学塗料が用いられることが多い。こうして出来上がった女神像に衣装や装飾品が着せられる。その衣装や装飾品を製造している職人たちもクマール・トゥリに居を構えている。こうして完成した女神像は、平均30000ルピー(約9万円)で各コミュニティーに売られることとなる。

アッシン月白分第8日(モハ・オシュトミ)
―――盛大なプシュパンジャリ(女神に対する献花儀礼)が行われる―――
祭も後半になってくると、窓の外では既にダーキー(太鼓奏者)の打ち鳴らす太鼓の連続的なリズムが始まっている。それと共に、妙な甲高い裏声の合唱が聞こえる。それはウルと呼ばれる、女性による女神歓待のための呼び声であった。口中舌をすばやく左右させながら裏声を出す。すると「ウルウル…」というように聞こえる。また同時に、複数の女性によってシャンクと呼ばれる法螺貝が吹かれる。祭の中で女性の果たす役割が大きい。女神崇拝の盛んなベンガルの祭の特色である。毎日、女神に対して献花儀礼は行われているが、この日は特に盛大に、大勢の人が集まって行われる。人々は両手に花を持ち、司祭の指示に従って4回に分けて花を女神の足元に投げかける。その間も、ダーキーの鳴らす太鼓の音は鳴り止むことがない。ダーク(太鼓)を叩くバチは左右で長さが異なる。これはダークを袈裟がけに肩から掛けているためであろう。右手に持つバチはおよそ35cm程、左手に持つバチは20cm程だ。

アッシン月白分第9日(ノバミ)
―非常に伝統的な儀礼のため、昨今では行われていないが、少女たちによるクマーリー・プジャが執り行われる―
一般的なヒンドゥー聖典ではドゥルガはシヴァ神妃ということになっている。ゴネシュ(ガネーシャ)、カルティックがその息子である、としている点も確かにドゥルガをパールヴァティの異相とすれば納得できる。が、しかしベンガルではロッキー(ラクシュミー)、ショロショッティ(サラスヴァティー)という、それぞれ一般のヒンドゥー聖典ではヴィシュヌ神、ブラフマ神の妃とされている神々もまたドゥルガの娘ということになっている。この事に関する記述は15世紀後半のポッドティ(儀礼書)に初出している。が、祭祀の起源はそれより遥か昔に溯るのであろうし、それがどのような経緯でそのような形を取るに至ったのかは分からない。吸収された民間・部族信仰の神格がヒンドゥー神格の形を取った時、それまでの信仰の影響力の大きさに正統とされる聖典の側を変化させてしまう、という事例は程度の差こそあれ、他の地方にも言えることである。こうして絶え間なく聖典は生産されていくのだ。このポッドティには、上記4体のドゥルガの子供である神格たちは4つのヴァルナ(カースト)の象徴であり、子供とすることによってその統合を示している、とされている。
ベンガルにおける縁起はともかくとして、一般に流布している聖典上のドゥルガの記述は以下の通りである。
「むかし、魔神オシュールは軍団を引き連れてヴェーダの神々と1000年に渡る戦いをしていた。オシュールは強く、神々を破って天界から追放してしまう。神々はヴィシュヌ神やシヴァ神らに助けを求めた。激怒したヴィシュヌ神やシヴァ神らの口から激しい怒りの光が出た。その光は怒れる女神・ドゥルガの姿となって具現化した。シヴァ神はトリシュリ(三叉矛)、ヴィシュヌ神はチャクラ(円盤)など、ドゥルガの10本の手にはそれぞれの神からオシュールを倒すべく授かった武器が持たされた。ライオンに乗った最強の女神・ドゥルガはオシュールの軍団を倒す。オシュールは水牛、ライオン、人間など次々にその姿を変えて戦った。水牛から人間の姿として現われ出ようとしていたところをシヴァ神から授かったトリシュリの一撃で倒した」(『マールカンディーヤ・プラーナ』)
この場面は今日のドゥルガ・プジャの神像製作のモチーフにも非常に多く用いられている。中には大変リアルに表現されているものもあり、大迫力で見るものに迫ってくる。しかし、そんなパンダル内部の祭壇の一角に、あまり目立たずに置かれている神がいる。それはコラボウと呼ばれる女神である。ベンガルではガネーシャ神の妻とされる。他の神像がフーグリ河の土によって形作られているのに対し、この女神はバナナをはじめとする9つの植物を束にしたもので、それにサリー着せていて大変ユニークな外見である。実際、上記のような一般的なヒンドゥー聖典ではガネーシャ神が妻帯であるというような記述はない。が、ベンガルの人に聞くと誰でもガネーシャの妻はコラボウだ、という答えが返って来る。地方によって信仰されている神格、神話が異なるにせよ、ここまで変化させてしまうのは大変興味深い。コラボウ信仰は植物に対する信仰だ。豊穣の大地ベンガルではその豊穣の象徴である植物への崇拝をこのような形で表しているのだろう。

アッシン月白分第10日(ドショミ)
―――既婚女性たちによるボロン(女神の送別儀礼)、シンドール・ケラ(シンドールを女神像、またお互いに付け合う儀礼)、最終的に女神像をフーグリ河に流すビショルジョンが行われる。 ビショルジョンの後、女神と娘、息子たちは天界へと帰還する―――
この日、既婚女性のみによってボロン及びシンドール・ケラという儀礼が行われる。共に既婚女性による女神との離別儀礼である。ボロンは一つの皿に菓子、コイン、花、シンドール、プロディープ(灯明)などを乗せ、女神に奉げる儀礼である。シンドール・ケラはその皿の中のシンドールを女神像、及び女性たち同士で付け合う儀礼である。シンドールは既婚女性を象徴するものであり、彼女たちは今後も毎年シンドールを付けられるような生活を送れることをこの儀礼を通じて祈る。寡婦はシンドールを付けられない。自らが寡婦とならないように、ひいては夫の長寿、健康をこの儀礼によって祈る訳だ。「ケラ」とは「遊び」を意味する言葉であり、そこには儀礼の持つ重々しさは微塵もない。女性たちは文字通り嬌声を上げながら、本来頭髪の分け目にのみ付けるはずのシンドールを互いの額や頬に付け合って遊び、楽しむ。
女性たちが充分にシンドールで遊んだ後、女神像はいよいよガンガーに流され、天界へ帰還することとなる。ガンガーの泥で作られた女神像は再びガンガーの泥となる。そして翌年再び、ガンガーの泥で女神像は蘇るのだ。この、女神像を河に流す最終儀礼をビショルジョンという。カルカッタにおいて、最も盛大にこのビショルジョンが行われるのはバブ・ガートである。そこには巨大な女神像が一堂に会し犇めいている。集結した数百人を越える人々の罵声と怒号が飛び交っている。数十人のクーリーに担がれた女神像は傾斜となっているガートの上の方からなだれ落ちるように河へと突き進む。その光景に茫然とし、気でも取られていたらすぐさま後ろからやってくる別の一団に担がれた女神にひき潰されそうだ。クーリーたちは歯を食いしばり、目は血走って死にもの狂いの形相をしている。というのも河に流すまで女神を絶対に倒してはいけないからだ。こうしてガンガー(フーグリー河)に流された女神たちは河を辿って天界に帰し、来年の降臨まで一時姿を消すのである。


posted by asiahunter at 05:21| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

サラスヴァティー・プージャ

建国記念日にあたる07年2月11日、川口市某会館で知人の在日ベンガル人グループによるサラスヴァティー・プージャ(ベンガル風に読むと『シヨロショッティ・プジャ』)がおごそかに執り行なわれた。

主催したのは在日歴十数年というベテラン(?)のベンガル人R氏で、彼と彼を取り巻く一団によって 主催され、招待状や告知によって集結した多くも彼の交友関係の範囲内の人々であった。
尚、R氏がサラスヴァティー・プージャを企画・実行したのは今回が初めてである。在日歴数十年という人々を中心とした在日ベンガル人会は既に存在し、大田区田園調布付近の会館などでサラスヴァティー・プージャは既に何度も開催されている。またドゥルガー・プージャなども同会によって主催されているものの他、バングラディシュ出身者が中心となって構成されているベンガル人会によっても神田などで秋頃に開催されている。R氏はそのいずれとも別に、今回独自に企画・実行した訳である。

↑今年2007年の設立である事が旗にも明記されている。

ある程度の年数を異国で過ごし、経済的・社会的にも安定してくると、次に求めるのはナショナリスティックな感情とそれに伴う権威付けなのであろうか。ただR氏にはそういったものはあまり感じられず、純粋にサラスヴァティー女神に対する篤い信仰心が感じられただけであった。(ドゥルガー・プージャは自らは開催しないという)従って、集めてただ飲食させるだけというような形式的・金銭的なイベントの対極的な、信仰に裏打ちされた真面目なイベントであった。
いずれにしても、在日インド人が故国を偲んで執り行なう宗教的イベントを最初の段階から垣間見ることが出来たのは貴重な体験である。

↑祭壇に掲げられた手作り感いっぱいのサラスヴァティー像。


↑ベンガル語による解説・朗読などが延々と続く。至って真面目な雰囲気。

多くの屋内貸し会場がそうであるように、この日彼らが借りた会場も、内部での調理が不可能である。あらかじめ外部で作った菜食のカレー・キール・アチャールといった神聖な食事は市販の弁当ケースに入れて配られた。

↑質素な味わいが信仰心を覚醒させるような昼食。

催しは夜まで続いたが、夜になっての食事は近くの中華屋からの出前のようで、大皿にシューマイやギョーザ、鳥のから揚げなどがバイキング形式で饗された。

この日の来場者数は約200人ほどであっただろうか。一人当たりの入場料を3,000円に設定していたので、会場レンタル料や食事その他諸経費を払ってもかなりお釣りが来る計算である。だが、R氏の姿勢には収益性というものは感じられない。
埼玉の川口は特に以前からベンガル系労働者が多く在住する所として有名で、在住者の多くは十数年ほど経過しており、日本語も堪能である。また相撲や野球といったスポーツ・芸能界にも関心が高いのが特徴である。その堪能さは同じインド出身のIT系の人々の話す堪能な日本語に比べて、その内容に於いてより土着的・スラング的であり、興味深い所である。

尚、サラスヴァティー・プージャとは以下のような祭りである。
他州(特に北インド)に於いてヴァサンタ・パンチャミーが行われるこの日、ベンガル地方では学問と技芸の女神サラスヴァティーのプージャーが行われる。

ベンガルの中心地カルカッタで最も盛んで、ドゥルガ・プジャ程の規模ではないものの、街の辻などにはパンダル(仮設神殿)が設えられ、クマールトゥリといった工房街で各町内ごとに発注されたサラスヴァティー女神像がその中に鎮座し、プージャが捧げられる風景が見られる。
女性によるウル(裏声での歓喜表現)や法螺貝での勧請儀礼、司祭のマントラによる壷への降臨、河流しの儀礼(天界帰還)など、祭礼の手順としては大祭ドゥルガ・プジャの縮小版ともとれ、ドゥルガ・プジャを見るチャンスの無い向きには興味深いかも知れない。

posted by asiahunter at 13:10| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年03月07日

インド人の時間概念

某日某所で某インド人と待ち合わせをした。
私は彼が遅れてくることを見越し、待ち合わせ時刻より30分程度遅れて到着すべく車で出発。渋滞も想定しての出発だったが、渋滞は無く待ち合わせ時刻丁度に着いてしまった。

『マズいな…』

私は待たされる事を予期してシートを倒し眠りに入ろうとする正にその時だった。

プルルルルル…

待ち合わせの彼からの携帯が鳴った。
今、到着したという。
指定時間通りの到着に面食らった私が問いただすと

『日本人は時間に正確ですから。
しかし本当に指定時間きっかりなので皆さん凄いですよね』

といたく感動している様子である。
たまたま間違えて指定時刻きっちりに到着してしまったとも言えず『まあね』と言葉を濁す他無かったが、その後の彼の言葉が妙に印象的だった。

『インド人の家に訪問しようとして、では何時にという時間を指定しますよね。でもその時刻にきっちり到着したら相手はまだ準備が出来ていないといって怒ります。少なくとも指定の時間より30分から1時間は遅れて行かなければならないんですよ』(笑)
posted by asiahunter at 16:16| Comment(2) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月10日

ピクニックに於けるインド料理 vol.2

昨日の体育の日(10月9日)は前々日の暴風雨から一転、雲ひとつ無い秋晴れで、正にこれ以上無い絶好の行楽日和だった。ただでさえ開放的な陽気で、何も無くとも日光浴の一つでもしたくなるようなこの日、私はまたしても、今度は富士山方面にピクニックするインド人一家に同行する機会を得たのだった。…


↑ほとんど雲ひとつ無い富士山遠景。今年見た中では一番クリアーな眺望である。

行き先は在日インド系にも人気の『富士サファリパーク』である。
ここはよく知られている通り、檻の中に入った動物を眺めるのではなく、自らが運転する車から、放し飼いの動物たちを見させるのを売りにしている。
同施設は車外に出るのはもちろん、窓すら開けるのも当然厳禁している。施設内には至るところその警告が日本語・英語両言語で記載されているにもかかわらず、いつもインド人と一緒に入園して思うのは、感興が激昂するあまり、窓を開けて声をかけたり、中には身を乗り出すようにして写真を撮ろうとしたり、子供によく見せてあげようと窓の外に子供の頭を持っていったりする過剰な行動が目立つ事である。その都度、場内至る所で監視している係官からスピーカーで注意を受けるので内心ハラハラするが、子供以上に無邪気にはしゃいでいる彼らに対して野暮な事も言いたくないというのが正直な所で、日本人的慣習とインド人的習性の狭間に揺れ動くアンビバレンツな心情をうまく処理出来ない自分がそこに居る。
大概の動物はその習性から、昼に訪れてもグッタリと寝そべっている事が多い。高い金を払って入っているのだから、もう少し動物ドキュルンタリーで見るような猛々しい姿を見たいというのも心情だろうが、訪れる日本人客は注意書きに実に忠実で大人しく、誰一人としてそのような事をしている客は居なかった。一方、かつて一度だけインドで場末の動物園を見た際、その観客の動物に対する対応に、その国民性の違いを如実に思い知らされた事がある。
彼らは例えばトラが入った檻の中に、石や紙くずを投げ入れたり、大声で野次り挑発する事によってその猛々しい反応を楽しむといった観覧の仕方を、老若男女問わず大半の観客がしていたからだ。


↑車内から見上げられるキリン。その非現実的な光景はインド人ならずとも幻惑される。

さて、騒々しい観光がようやく終わり、個人的には最も楽しみにしているピクニック食の時間となる。今回も複数の奥さん連中が、おそらく普段家庭で出している以上の素材と調理時間をかけて持参したインド料理が所狭しと並んだ。空腹とも相俟り、顔のほころびを抑えられない自分を意識する。





今回の出身者は西インド方面が多かった。
彼らは朝の軽食も持参していたが、その内容は米を主体としたプラオ風の料理で、写真や呼称は例によって食べながら聞いたので失念したが、モチモチとした食感と油分が充分な食べ応えを感じさせ、かつ素材は細かく切り刻んだ複数の野菜と豆が入った健康的な一品だった。

また昼食には主食としてチャパティ、ノーマルのプーリーの他、インドではやや高めのレストランにしか置いていないパラク(ほうれん草)入りの緑がかったプーリーも準備されていた。サブジー(おかず)としては、スパイシーな中にほんのりと甘みを感じさせるアル・マタル、濃厚な味付けのパラク・ゴービー、マタルとピャージ(玉ねぎ)のカレーなど数種が大量に用意され、またインドでは日常的に付け合せとして食される生のムーリー(大根)とコークリー(胡瓜)が、一瞬浅漬けのように並べられ、インド産のもの程やはり味・食感はカレーに合わないものの、雰囲気的には楽しむ事が出来る。またインドの家庭・ピクニック料理に不可欠な食材であるダヒー(ヨーグルト)も当然、準備されている。
このようにして一通り、チャパティとプーリーで食事を進めたあと、シメのような形でプラオなどのご飯ものを食す。それはビールと餃子で一杯やったあとにラーメンを食べてシメるのに似た印象であり、スープなどの前菜のあとにメインのステーキを食べるような印象ではない。インドでも高級レストランなどの出し方はこのようになっている。
いずれにしても、迂闊にもチャパティーやプーリーといった前段階を腹一杯食べてしまうと、このあとに続くせっかくのご飯類が苦しくなるので要注意である。


↑澄み切った秋晴れの日は何よりもインド人とのピクニック日和。
posted by asiahunter at 22:43| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月01日

ピクニックに於けるインド料理

今年に入って一体何家族のインド・ネパール系とピクニックを共にしたかと思い、何気なくスケジュール帳をめくってみると、既に7回ものピクニックを共にしている事が判った。行き先は一度だけGWに関西に行った他は、ほぼ全て日光もしくは富士山のいづれかに偏っている。

傾向として(なかなか地元には無いので)インド人は流れる滝を珍しがり、好む習性があるという、根拠の薄い情報を以前何かの本で読んだ記憶がある。もう10年ほども昔、北インドのヒマラヤ近く・ガンゴートリーなどの四聖地(チャールダーム)を散策した時、途中の巡礼道から垣間見える短い滝を珍しがっているインド人巡礼団を、逆に何がそんなに珍しいのかと不思議に思い、後日くだんの本の情報によって一応納得したという昔の旅時代のかすかな記憶が、日光・華厳の滝に心奪われているインド人たちの姿を見て再び呼び覚まされた。
インド人の滝好きは紛れも無い事実であり、夏のシーズンなど毎週末、華厳の滝を訪れれば必ずインド人観光客の姿を見かける。彼らは例外なく滝の前で記念撮影し、デジタルビデオで流れ行く滝を撮影するといった、過剰な反応を滝に対して示す。また滝の下まで下降する観光用の有料エレベーターに何の躊躇も無く乗って観光する。

↑インド人を陶酔させてやまない日光・華厳の滝

もう一つ、インド人が好む傾向があるのが「東武ワールドスクエア」入館である。
以前時々放映されていた、栗原小巻のCMを見ても何の感興も起きなかった私から見ると、一体「東武ワールドスクエア」のどこにそれ程大きな魅力を感じるのかとても不思議に感じる。おそらく一部の先駆的なインド人が「東武ワールドスクエア」観光を果たし、過剰に喧伝したため日光・鬼怒川に行った際は必ずここを訪問しなければと思っているのだろう(インド人はある意味で日本人以上に画一的な性向がある)。しかし、入館後2〜3時間はざらに見物しているのだから、実際それなりの満足は得ているようでもある。この2〜3時間という時間は昼寝にちょうどいい時間でもあるので、私は必ず車の中で寝ている。

さて、インド人とのピクニックで最も楽しく、興味をそそられるのは、その持参する食事である。
まず主食のライスだが、北インド・南インド出身地問わず、白いまま持って来る事は皆無で、必ずプラウやビリヤーニーといった炊き込みご飯形式をとっている。日本人のピクニックでも白メシを弁当箱につめるより、ごま塩やふりかけなどをかけるのと基本的には同じ感覚なのだろう。尚、在日インド系の大半がベジタリアンである事から、肉入りのビリヤーニーである事は極めてまれである。



また、北インドの場合、ライス系にはダールが必要とされるが、トゥール・ダールなどといった家庭ではごく一般的なダールが用いられる例は少なく、ラジマなどのやや濃厚なものが好まれる。これはピクニックという非日常的空間に於ける食材として、非日常的な食材が選択されるためでもあろうし、また数家族単位でピクニックをする場合に、自らの持参食料を見栄えの良いものにしたいという心理の表れでもあるとも思われる。



この傾向はインド人は一般的に強いが、特にその傾向の強い奥さんがグループに混じっていた場合、やたらとおかずの数が増え、更に強引に振舞いがちになるため、グループ間の主婦同士の心理的駆け引きとは無縁である部外者の私にとって大いに歓迎すべき傾向である。



また現在のインドでも、食パンをロッティの代用的に食しているサラリーマン世帯が増加傾向にあるが、在日インド系も同様であり、中にはピクニックに向かう途中のコンビニで食パンを調達する家族も居る一方で、プーリーやバトゥーラ、中にはアールー(ジャガイモ)入りのパロータを作ってくる奥さんなども居る。中華料理と違い、インド料理は全般的に冷めても美味しくいただけるが、とりわけこのパロータは、ある程度時間を置いたものは、出来立てとはまた違った味わいがあるので持参すると歓迎される。

おかずであるカレーに関して言えば、大体汁気の少ない、コールマ的なカレーが多い。
インド人一般的に、あまり器や保存容器にはこだわりが無く、大体食べ終わったヨーグルトやピーナッツ・バターの空き缶などに丹精込めて作ったカレーを入れてくる場合が多いので、密閉に問題がある事が理由なのか、それとも単に汁気の多いカレーがピクニック食としてふさわしくないからなのか不明だが、サラサラしたカレーは南北インド問わず、まず無い。
いずれにしても、こうした持込のインド家庭料理で『美味しくない』と感じた事は皆無であり、どんな些細な、あまり技術を要しないような料理でも例外なく全て美味しく感じられる。


↑見ようによってはウッタランチャル州ナイニータールに見えなくも無い中禅寺湖
posted by asiahunter at 03:52| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月29日

テルグー式正装

先週の土曜、知人のテルグー人一家を連れて栃木県の日光観光へと赴いた。
主人は今流行の西葛西在住IT系技術者。ちょうど彼らの両親がインドから日本に来ていて、日本の景色を見せてあげたいという。とは言え天気予報では「朝のうちは曇りだが日中はずっと雨」。それを見越した奥さんが『じゃあ当日6時に来てほしいんですが』とインド人らしい無理難題を要求、それ以前にも何度か彼らにはお世話になった経緯があり、義理を重んじる事を身上とする私としては呑まざるを得なかった。

当日の朝、定刻通りに彼らの自宅前に着くと、インド人らしからぬ素早さで一家が降りてきた。どこかに遠出などする時、大体のインド系(特に女性)は定刻通りに出発する事が無いので、今回の日光観光に賭ける彼らの並々ならぬ気迫に、前日(当日)の午前2時まで別の仕事をしていてほぼ完徹状態の身がにわかに引き締まる。
彼ら一家を見て驚いたのは、彼らの父がまるでインドの聖地を巡礼するかのごとく白いドーティにチャッパル(ビーチサンダル)、白クルターといういでたちだったことである。肩にはこれまた白ガムチャー(インド式手ぬぐい)をかけている。これはインドでも昨今減少しつつある正統派南インド(テルグー)・ヒンドゥーのスタイルであり、いわば正装である。
インドで何でもない光景を日本で見ると非常に奇異に感じる事が少なくなく、この時も目が釘付けになった。


↑東北自動車道・蓮田パーキングを本格的テルグー・ヒンドゥーのスタイルで闊歩する祖父とその孫


日光は既に昔から何度もインド人を連れて行った経験があるので大体の道順などは既に把握している。紅葉のシーズンは尋常でない程に混むが、それ以外のシーズン、特に今回のような雨模様の五月後半など訪問客も少なく東北自動車道も空いている。
早朝に出発してきたので、途中のパーキングで食事と相成った。
インド人は菜食主義者が多いため、なかなか外食も思うようにままならない。従って彼らは食事を持参するが、いつも困るのはその場所の確保である。地方の場合、こうしたパーキング・エリアが利用できるが都内だとなかなかそうは行かない。とは言え今回は家族にお誂えのベンチがあったので、野天で気持ちのいい食事となった。




↑こちらは昼食時のスナップ。
大量のアーンドラ式プラウ(炊き込みご飯)が用意されている。


↑プラウにはクラッカーのような付け合せが乗せられる。
食事中につき、メモが取れないので教えてもらったテルグー語名称も全て忘れてしまった。


↑南インド全域で食されるカードライス(ヨーグルトご飯)
しょうが、クミン、マスタードシードなどのハーブ・スパイス類を油で炒めてご飯と程よく絡ませたのち、しばらく冷ましてからヨーグルトを混ぜる。(熱いうちにはヨーグルトは混ぜないという)


↑プラウにはブーンディ(天カスのような揚げ玉スナック)を混ぜて食される。
このブーンディも彼らの両親が故郷から持ち込んだものである。


↑食後は甘いものを食べる。
小麦粉の団子のような手作りのラッドゥー。


↑日光・中禅寺湖をバックに写真を撮るテルグー人一家。

posted by asiahunter at 10:23| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年05月02日

在日スィク教徒

先日とある所用で知人のスィク教徒J氏と会った。J氏は川崎市内にある属部上他企業内で勤務する今はやりのIT技術者である。

インド系IT技術者はマラティー系、タミル系、テルグー系が多いが、数少ないとは言え彼のようなパンジャーブ系も存在する。関東近県在住のパンジャーブ系は主に町田〜相模原方面に多く在住していて、主として解体業その他の肉体労働に従事している。

パンジャーブ系のスィク教徒はインド国内ではターバンを巻き、ひげを伸ばしたビジュアルで知られているが、そのビジュアルは必ずしも厳格に規定されているものではない。スィク教の宗派によっては厳格なものもあるが、例えば同じ兄弟間でもターバンを巻いている兄とそうでない弟が存在するようなケースが珍しくない。

従って、土木解体業などに従事する他合、ヘルメットの着用が義務付けられるため、日本入国時には立派なターバン・造げ姿であっても就業上、または諸々の事情でその姿を日本人の目に映っても奇異な者に見えないように変え造るを得ず、このため日本在住後もその姿を貫き通している同胞に対して彼らは深い尊敬の念を持っている。

J氏のようなIT系スィク教徒は就業上ビジュアルを変える必要が無いのでそのままの姿で通している。J氏と同じ派遣先には同様のスィク教徒がもう2人居て、彼らもまた造げ+ターバン姿で就業しているという。

さて、このようなスィク教徒が集う寺院として、都内文京区某所には東京グルドワーラー(Guru Nanak Darbar Tokyo)というスィク寺院が存在する。J氏も複数回訪問したという。以下記録は2002年7月21日に同所を訪問した際のものですが、今でも同じ他所にありこのようなイニシエーションが行われている。


都内にあるグルドワーラー(スィク寺院)『Guru Nanak Darbar
毎月属度、ここで月変わりの儀礼(サングラン)が行われ、関東近県のスィク教徒及びスィクを信仰する人たちで溢れている。
月変わりの儀礼はインドでもし造し造目にすることが出来る祭りである。
インド起源の諸宗教はほぼ全て太陽太陰暦に従って宗教儀礼の・村りが決定されている。月変わりの儀礼とは要するに1月から2月に月が変わる時に行われる祭りで、インドでも例え造この・、路上に簡易ブースを設え、道行く人々にシャルバット(ジュース)を振舞っている風景が見られる。

但し、インドでは太陽太陰暦によって開催日が設定されるが、インド国外に於いては居住者の勤務時間上な都合を考慮して適宜な週の祝日または土日があてられている。(2002年は7月21日であった)

尚、スィクには他にも開祖Guru Nanakの聖誕祭(4月15日)Hola Mohallaなど重要な祭典がいくつもあるが、そうした日は特に都内ではイベントを催していないとの事であったが、この辺りは再度確認の必要性を感じる。

このグルドワーラーは都内某所のとあるビルの地下にある。
ビルの所有者はインド人のクマール氏で、現在はボンベイに居を構えているヒンドゥー教徒である。同ビルの1階テナントにはインド料理屋が入っている。
クマール氏がここで他所提供するまで、それぞれ月属の順に信者の家や店舗などが集会所として提供されてきたという。

こうした集まりはそもそも98年頃よりはじまったもので、都内初の集会所として場所提供したのは赤坂にあるパンジャーブ料理店『Great Punjab』(オーナー/Bhupender Sokhi氏/愛称ブッピーさん)である。

最終的にはこうしたビルの借り室ではなく、独自の土地と寺院を所有する意向である。信者からの寄付は相・額に上っており(2000万円弱?)既に土地購入のために場所の選定に入っている段階だという。他所は戸田、大宮、赤羽などのJR埼京線沿線が候補に上がっている。
(ちなみに以下に説明する通りグルドワーラーでは礼拝後、皆で食事をするため同店に食べに入るスィク客は全く居なかった)


グルドワーラー(Guru Nanak Darbar Tokyo)参拝の手順は次の通りである。
1)履物と靴下を脱ぎ、預け(自・でゲタ箱に置く)た後、両手両脚を洗う。

2)箱に沢山入っているサフラン色の布(Guru Nanak Darbar Tokyoのロゴの入っているものもある。私は許可をもらって一枚入手に成功した)を頭に巻く(既にターバンを巻いてあるスィク教徒はその必要はなし)。

3)寺院の本殿に頭を低くして入る。(入る時、本殿の床にプラナームをする信者が多い)

4)本尊(布に包まれた『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれるスィク教の聖典)にかしずき、礼をした後、それぞれの懐具合に照らし合わせて寄付をする。(金は聖典の下の床に造造乱雑に置かれる。ちな造にこの時私が払ったのは1000円だが、他の人たちを見ていると大体2〜3000円程度が相場のようである)



5)その後、本殿から出て、手洗い所の脇にあるスペースでお菓子(パーハルとパンジャーブの甘い菓子)とシャルバト(ジュース)を振舞われる。基本的にこれもおかわり自由で、特に私のような日本人参拝客が珍しいせいか(他に誰も居なかった)、器が空になるとすかさず係りの人が間髪を入れずおかわりを盛ってくれる。尚、こうした仕事はインドレストラン従業員などが志願して給仕係を買って出ているようである。


傍らに山と積まれた団子。
参拝に来た人々にまず最初に振舞われる。
有力者の寄付によるものであろうか。


本殿全景。
広さは造っと見積もった所では20畳ほどであろうか。
奥の台座に鎮座しているのがスィクの聖典『グル・グラント・サーヒブ』である。信者はめいめい、本殿に入るとここに傅く。儀礼は午前10時からはじまると聞いてここに来たが、はじまったのは10時半頃から。人々もその頃になると損々五々集まりだす。尚、集まっているのは99パーセント男である。

午前10時半、恭しく聖典の上の覆い布がほどかれ、グランティー(『グル・グラント・サーヒブ』の読経者)によって読経がはじまる。当然の事ながら全てパンジャーブ語によるもので、理解出来ない。これがまず1時間半続く。この間も遅れてきた人たちが入ってくるので徐々に会場は狭くなる。
尚、グランティーも普段は別の仕事をしている方であり、専業という訳ではない。


1時間半にも上る属定のリズムの読経は心地よい眠りに誘う。
私ならずともウトウトしてしまう人も少なくない。
集まっているスィク教徒の中でもターバンを巻き、ひげを生やしているのはごく少数であるが、彼らに言わせると『海外で働くためには仕方の無い選択』との事である。
彼らの仕事は、聞いた範囲で最も多いのは解体などの建設業である。仕事の印象を聞くと『社長は冷たい』と言う人もいる。
彼らが住んでいる他所として多かったのが相模原で、『20人ぐらい住んでいる』と言う人もいれ造『7〜80人は住んでいる』と言う人も居たが、少なくとも相模原にパンジャーブ人が多く住んでいる事だけは確かである。その他の地域では埼玉県蕨市、戸田市などが多かった。



『ワーヒ・グル・カーカー・サーブ、ワーヒ・グル・マハーデーヴ』という締めの言葉で1時間半の渡る読経のあと、さていよいよ終わりかと思いき造、今度は(12時〜)バジャンの唱和がはじまった。
本尊の傍らにハルモニウム、ドーラクなどの楽器が持ち出され、男女の歌い手によって属節ごとバジャンが歌われ、その後に信者たちの唱和が続く。この時、読経中は・殿の外に出ていた人々も再び中に入りだし、20畳ほどの・殿はさしずめラッシュ・アワーの電車のような状態になる。正確には把握の出来ようも無いが、200人ぐらい居たのではないだろうか。

バジャンは途中で歌い手が交代した。
交代したのはアメリカ人のスィク教徒(奥さんは日本人との事)で、見た目は60歳らいの大男であった。私には理解できないパンジャーブ語で器用にハルモニウムを弾きながら歌っていて、集まっているパンジャーブ人たちもそれに続けて唱和している。

スィク教は異教からの改宗・入信が可能だという。
例え造スィク教徒と結婚した日本人女性が改宗している他合もあるそうだし、日本人の家族がそのまま属家で入信してもいるらしい(その日本人家族はこの日来ていなかったが)。ただ、かと言って私のような新規参拝者に信仰を強制する事など全く無い。彼ら全世界のスィク寺院は全ての人間の参拝を許容している。


1時間ほどのバジャンが終わった後、午後1時となり、『いよいよ終わりか?』と思ったのもつかの間、またも造グランティーによる読経がはじまった。 
午後2時、漸く全ての読経が終わったようで、いっせいに信者たちは本殿の外に出る。
顔には造造疲労の色が見える。
再度手を洗い、『グル・カ・ランガール(神様によって施された食事の提供)』がはじまる。


ランガールは全ての人々に対して平等に行われる。
参拝者たちは属列に座り、多事を与えられる。
全世界のスィク寺院(グルドワーラー)で共通に見られる光景である。

(世界中にあるグルドワーラーの属覧サイト)

パンジャーブ名物『ダール・マッカニー』も振舞われた。
ダールの中にはラジマ豆も入っていて濃厚な味わい。基本的に何度おかわりしてもいい事になっている。


プレートに盛られたランガール。
主多のロッティ、サブジーはダール・マッカニー(ダール豆とバターのカレー)、アル・マタル(ジャガイモとグリーンピースのカレー)、サラダ、デザートという内容。


食べる前に神への祈りの言葉が捧げられる。
尚、各自皿を置くと全ての参拝者が中に入れないため、ランガールは数度に分けて行われた。食事が済むと本殿の外で待っている参拝者と交代し、他所を譲らなければならない。
posted by asiahunter at 03:40| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月18日

出前インド料理

先日の土曜(15日)、以前勤務していた西葛西のインド旅行会社の事務所移転作業を手伝った。移転先は近場だが、資料類・書類などの紙ものが非常に重く、作業は思いの外難航した。早朝から作業を始めたものの、手伝いに来る予定のインド人社長のご子息が現れず、昼前には終わるかと思われた作業がインド時間的に進み、昼メシ時をまたいでしまった。空腹を感じ始めた頃、おもむろに昼食の提案が社長によってなされ、我々は静かに同意した。

『じゃあ、カレーでいいですね』
あたかもそれが自然の成り行きであるかのごとく昼メニューはチキン・カレーに決まった。
社長が携帯で出前の電話注文し、その間も我々は黙々と作業をこなした。
ほどなくして出前カレーが到着。配達元は西葛西でここ以外存在しないというインドレストラン「スパイスマジック・カルカッタ」である。

今までも何度も出前を取ってもらった事はあるが、その配達現場を直接目撃する事はなかったが、今回たまたま外での作業中だったのでその現場を初めて目撃出来た。

「カルカッタ」勤務のインド人従業員が白いコック用制服のまま、簡易タッパーなど入れた袋を提げてママチャリに乗ってやって来る。何度か直接店で食べた事があるので見知った人だったが、ママチャリに乗って配達している姿が何か非常にフォトジェニックだったので思わず写メールを撮っていた。その姿が、昨今インド系駐在員流入の著しい西葛西という街を象徴している気がしてならない。

↑出前のチキンカレー、タンドーリー・チキン、ナーン、サラダなどの昼セット。
写っていないがこれにペットボトル入りのラッシーが付いている。
空腹のせいか、チキンカレーが殊の外美味しく感じられた。


posted by asiahunter at 00:44| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月13日

ウガディ

4月9日は在日テルグー人によって都内某所でウガディ祭(正月)が催された。
在日外国人の多くの他のイベント同様、日本と故国の祭暦が異なるため、故国での日程・期間(インドでのウガディ祭は一週間続く)とはずらしているが、特にここ数年ITや製造業で有名なハイデラバードからの技術者の流入が増えたので在日ウガディ祭も他の在日アジア系イベントと同規模の大きなものだった。(アジア諸国の宗教暦は大体共通しているので、在日のアジア系正月イベントは日程的に重なる場合が多い)

ウガディ祭とはアーンドラ・プラディーシュ、タミル、ケーララ、カルナータカなど特に南インドを中心に祝われる正月期間の祭礼の事である。
神話上の由来としては、創造神ブラフマによって時空が創造されたとされる初日を、聖仙ヴァラハミヒラガによって6世紀に人間の暦(ヒンドゥー暦)上に当てはめたもので、ヒンドゥー暦上ではチャイトラ月満月日に同定され、この日が一年の始まりである正月であるとされる。

またウガディUgadiという語は『Yuga Aadi』が語源で、『Yuga』は神話上の時間周期単位の意、『Aadi』はその周期のはじまりを意味する。人々はこの日、服や日常用品など新調し、ココナッツオイルを肌に塗り、家の門やドアなどにマンゴーの葉を飾り沐浴する。また当然お参りなどしてその年の健康その他を祈願する。

このウガディ祭は個人的にインドでは体験した事がないが、日本に居ながらも多少なりとも現地の雰囲気を味わうことが出来るのは貴重である。会場ではステージ上で様々な催し物が出されたが、特にCNC代表の野火杏子さん指導するテルグー人の子供たちによるダンスが物凄く可愛らしくてびっくりした。父兄の方々がステージ脇で団子になってわが子をビデオ撮影していた。



12時になるとビッフェ形式のアーンドラ料理のランチタイムとなる。
ビッフェはインドの祝祭イベントと同様、それぞれの食べ物の前に給仕をしてくれる人たちが並び、自ら皿に盛るのではなくそれぞれサーブしてもらうスタイルである。(この人たちは特に飲食関係者ではなくサラリーマンである)




個人的にアーンドラ料理は「辛い」というイメージがあったが、非常にまろやかで美味しかった。食べながら、現地で再度アーンドラ料理に舌鼓を打ちたい衝動に強く駆られた。








ここで以下、現地でのアーンドラ料理を食するのに役立つ食に関するテルグー語を並べます。(発音その他、より正確には現地の方に照会ください)

■名詞
食べ物…『アーラムゥ』
食事…『ボージャナームゥ』
肉…『マーサムゥ』
ライス…『アンナムゥ』
カレー…『コーラ』
菜食ターリー…『シャーカーハラームゥ』
肉食ターリー…『マンサーハラームゥ』
牛乳…『パールー』
ロティ…『ロッテ』
砂糖…『チャッケラ』
アチャール(漬物)…『オオラガーヤ』
ギー…『ネーイィ』
バターミルク…『マジィーラ』
ヨーグルト…『ペルグー』
食用油…『ノーネー』
ココナッツオイル…『コッハバリノーネー』卵…『グルッドルゥ』
魚…『チェーパ』
塩…『ウップゥ』
酒…『サライ』
野菜…『コーラガーヤル』
トマト…『ラーマムゥラガカーヤ』
ドラムスティック…『ムナガカーヤ』
おくら…『ベンダカーヤ』
レモン…『ニムマカーヤ』
青唐辛子…『パチミレパカーヤルゥ』

■形容詞
美味しい(良い)…『マンチー』
甘い…『ティヤーニ』
苦い…『チェディーナ』
すっぱい…『プラーニ』

■動詞
食べる…『ティヌゥ』
例文:)「イイ・パンドルゥ・ティヌムゥ」
(この果物を食べなさい/イイ=「この」、パンドゥ=「果物」 ※動詞に「ムゥ」を付けると命令形になる)
飲む…『ティラーグゥ』
※より詳細なテルグー語学習には『書誌なゆた屋』にて購入可能な『Learn Telugu Through English』が有益です。
posted by asiahunter at 15:24| Comment(1) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

神戸のジャイナ寺院

前回、都内に於けるジャイナ寺院について記載したので、今回は以前(2002年6月28日)訪問した神戸市にあるジャイナ寺院について記載します。
情報が古いので、現在でもその通りかどうかは不明です。…


寺院正面。 異人館通り沿いに立地する。住宅に囲まれ、一見判りづらい場所にあるが近寄ってみればその威容が認識出来る。 起工式は1984年5月4日、落成式は1985年6月1日、と同寺院の小冊子には記されている。出資者は当然在日ジャイナ教徒である。彼らジャイナ教徒の出身地は殆どがグジャラートである。


寺院入り口にはおそらく観光客向けに日本語で左記のような看板が出ている。 (見学時間などは『一応』日曜・祝日のみとされているようだが、平日に訪問しても全く問題なかった)



寺院入り口脇にある、寺院設立時の出資者一覧。 設立は在神戸ジャイナ教徒28家族の浄財によって賄われた。落成式であるPratishtaには、国内外から約500名ものジャイナ教徒が集合したという。 (写真には写っていないが)一覧の一番下には日本の施工業者の名前も彫られている。彼ら日本人建築施工業者たちも、設計前の段階からインドへと派遣されジャイナ教建築様式を学んだという。 現在でも設立当時の構成員からほぼ変化は無く、約40名の檀家で構成されている。



寺院の外壁にも本場のグジャラート州に於ける寺院建築を彷彿とさせるような見事な彫刻が施されている。この彫刻などは日本にインドから寺院建築・彫刻の職人などを招聘して築いたものだという。 寺院は最初、扉こそ開いてはいたものの人気が無く、呼び出しブザーを押してみると後述の司祭D.H.Tarar師が2階からひょっこりと顔を覗かせた。



分厚く重々しい銀の扉も寺院の荘厳な雰囲気を手伝っている。大理石も、これでもか、といわんばかりに彫刻が施されている。 寺院の建坪は約200平米、地階を含め3階建てで、2階が聖堂になっている。



寺院内部。(1階) 1階部分の内装は思いの外シンプルである。 尚、寺院には地下室、及び3階もあり、それぞれ遠路来た巡礼者の宿泊ホール、司祭の部屋となっている。 敷地面積は狭いにもかかわらず、それぞれの階はエレベーターでも行けるようになっている。



前述の通り、ジャイナ教徒はその殆どがグジャラーティーであり、主に真珠の輸出ビジネスに携わっている(現在ではそれ以外のビジネスに進出している人も多い)。彼らはまた(グジャラート系)親睦団体であるThe India Club(1913年設立)の構成員でもある。居住区は殆どが中央区北野周辺で、ここからスィンディー系インド人の多く居住する熊内〜パンジャーブ系インド人が多い上野通り〜護国神社までの道は比較的インド系移民の居住者が集中しており、あるインド系の方は『インディアン・ストリートです』と語った。また神戸市須磨はかつてインド領事館があったこともあり(震災後は大阪に移転)グジャラーティー系インド人移民が多く居住している。(特に須磨駅/ロンドンベーカリー/マリスト国際学校周辺など) 兵庫県の地域別外国人居住者の統計(PDFファイル)


1階部全景。  ごくまれにであるが、結婚式のホールとして使われることも、その昔はあったという。


寺院内部。(2階) 本尊であるマハヴィール・スワーミの像が鎮座している。この像はインドからの空輸である。聞き損じたが、例年4月に行われるマハヴィール生誕祭が最も大きなイベントではなかろうか。


四方八方の壁は全てインドで加工され、輸入された大理石が用いられている。


寺院2階中央の天井にぶら下がっている豪勢なシャンデリア。


神前に供するための食事が作られる台所。ここでは神前に供する食事が作られるのみであり、司祭が食べる食事はまた別の場所で作られている、との事である。


■寺院の儀礼を司るD.H.Tarar師。 常に微笑を絶やさないその温かい眼差しに癒される思いがするのは私だけではないはずだ。 師は在日歴12年という話であったが、ほとんど日本語は話さない。日本の印象はあまり外に出ないので「よう判らん」との事。土地に不案内な我々が行きたい地名を問うと熱心に説明してくれ、それでも要領を得ない我々に仕舞いには裸足で外に駆け出し、ゼスチャー交じりで説明してくれたのには感動した。
posted by asiahunter at 08:41| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月29日

御徒町の宝石系インド人

先日台東区・御徒町在住のとあるインド人商人からTELがあった。
以前彼の事務所移転を手伝った事のある人物で、ダイヤモンドその他様々な宝石の輸入販売を商う宝石商である。その時は事務机その他事務用備品などはともかく、約400kgはあろうかという金庫がどうしても我々素人には如何ともし難く、プロの運送業者に任せる事とした。
その時の非常にハードな作業がトラウマとなり、彼からの電話に一瞬拒絶反応が出たが、単に家庭の大きなテーブルとかソファーなどを春日通りを隔てたすぐ対面のマンションに運び込むだけ、つまり単に男手が必要というだけの話しで、その日はちょうど西葛西方面に行っていて、帰り道の通りかがリでもあったので二つ返事でOKした。

最近はIT系の新興在日インド人が増えたので、彼らの主要な居住地である東大島・西葛西・行徳・妙典などの東京東部方面もしくは川崎市川崎区・幸区・横浜市鶴見区といった神奈川県南部方面のいずれかに呼ばれる事が多く、週のうち数日は必ずどちらか(またはどちらも)行っている。
上野・御徒町のインド系はIT技術者ではなく主に宝石商であり、ここに住んでいるインド系のIT技術者はまだ知らない。御徒町の多慶屋裏手にはこうしたインド系宝石商家族客を見込んだ「ガネーシャ」というインド食材屋があったり、また彼らの多くがグジャラート州出身のジャイナ教徒が多いことから小さな祠がとある個人宅の一室に設えられていて、自由に参拝可能である。尚、ヒンドゥーの祠は無い。


上野・御徒町に存在するビルの一室にジャイナ教の祠がある。


↑祭られている祭壇。

またヒンドゥー教徒も多く、春のホーリー祭など彼ら独自に近場の会場を借りて祝っているが、西葛西や川崎のインド系コミュニティーが誰でも自由に参加可能なイベントを行うのに対し、宝石商コミュニティーのそれは入場にドレス・コードを設けるなど(男はスーツ着用、女性はサリー着用)新興系インド・コミュニティーとは一線を画している。(尚、こうしたインド系イベントに着用するためのチューリーその他アクセサリーなど、直接彼らの家まで出向いて販売した事もあります)ごく内輪だけの、閉鎖的なものになっている。


↑壁面のホワイトボードには執り行われるプージャの名称・スケジュールなどが書かれている。


↑プージャをするジャイナ教信者一家。
(参考ジャイナ教サイト)

そのような性質を持つ宝石系インド人なので、なかなか接触が難しいが、一度上記のような形で関わりを持つようになってからは何度か先方から連絡が来る事も増えた。そうした中に今回のような依頼もある。IT系のインド人も超一流の企業に勤務していて相当な高給なのだろうが、おそらく宝石系インド人の資産とは比較にならないのではないだろうか。それは時々訪れる彼らの家の家具・調度品など見てもうかがい知る事が出来る。彼らの中には都内の土地やビルなどを密かに所有している人も居る。彼らの多くが、一見中流の家庭環境のようでありながら、その実何かしら底知れない資産を所有しているように感じられてならない。
さて、一昨日はそんな宝石系インド人M氏宅の家財道具運びの手伝いをしたのだが、何気なく眼にした台所に転がっていたキッチン道具に興味をそそられた。



これはヒンディー語正式名称は不明だが、奥さんは通称なのか単に外人である私に判りやすく説明するためか不明だが『コリアンダー・ボックス』と言っていた。
その通り単に生のコリアンダーの葉を入れるためだけの用途で使用されるステンレス製の道具である。乾燥を防ぐためなのか、規則的に数箇所穴が開いている。このような道具は単に私が今まで気付かなかっただけなのか、それともグジャラート以外の地では一般的でないのか、それすらも不明だが、まだまだ知らないインドの台所用具というのは多いという、インドの奥深さを垣間見たひと時だった。
posted by asiahunter at 04:52| Comment(1) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月09日

マハー・シヴァ・ラットリ

本日3月8日はマハー・シヴァ・ラットリ(シヴァ神の大夜祭)であり、インドでは祝日となっている。



ヒンドゥー教の祭りはヴィクラマー・ディティヤと呼ばれる太陽太陰暦に基づいて開催日が同定されているため、西洋諸国や日本などで使用されているグレゴリオ暦からみると毎年一定の日では無いように見えるが、逆にヒンドゥー暦から見ればグレゴリオ暦上の祭日がズレて見える。従って、毎年発売されるヒンドゥー暦カレンダーを購入しない限りその年の祭日がグレゴリオ暦上でいつなのかは特定することが出来ない。
(ちなみにアジアハンターで販売しているカレンダーを見れば2005年のヒンドゥーの祭日は一目瞭然です)

いずれにしてもこのマハー・シヴァ・ラットリの日はシヴァ神を前夜から称え崇める祭りである。
インドは広大で、祭りによっては同じヒンドゥー教といえど南北でかなりな差が出てくる。これは元来全く性格の異なる別個の部族宗教を、ヒンドゥー教の名の元に統一した歴史に由来するもので、例えば北インドで大きく祝われる「ホーリー」という祭りは南インドでは全くといっていいほど関心を持たれていないし、逆に南インドの「ポンガル」という祭りを祝う習慣は北インドには皆無である。

但し、このマハー・シヴァ・ラットリだけは別で、全インド的に展開される祭りである。
これは古代ヒンドゥー教の浸透過程におけるシヴァ信仰の間口の広さ、信仰のし易さに所以するものであるが、信仰や祀られる本尊の形状の違いこそあれ、シヴァ神は全インド的に崇拝される神格であることだけは確かである。その証拠に、全インドにあまねく東西南北12個所に『光り輝く12のリンガの地(ドワーディーシャ・ジョーティル・リンガム)』と呼ばれるシヴァ教系聖地が存在し、多くの巡礼を集めている。

マハー・シヴァ・ラットリの前夜、ヒンドゥーたちは断食をし、豊穣と力のシンボルたるシヴァ神に詣で願かけする。断食をするのは自らの肉体を苛める事による代替として恩恵を得ようとするある種の交換条件であろう。人々は手にシヴァ神の好物とされるドゥルバの葉や壷(ロタ)に入れた牛乳などを持ち、長い行列を作って本尊に捧げる。その行列は上記光り輝く12のリンガの地などの有名な聖地などでは一晩中途切れることが無い。
参考サイト

さて、このマハー・シヴァ・ラットリは日本でも在日インド人の間で祝われているという。
主催団体はよく判らないが、私の知人が本日御徒町で開催されたマハー・シヴァ・ラットリに参加した。御徒町は宝石問屋が有名だが、またそうした宝石業に携わるインド系が多く居住している事でも一部のマニアの間では有名で、ヒンドゥー教徒ではないが、ジャイナ教の小さな寺院(祠)も存在する。
在日ジャイナ寺院は神戸のものが有名だが、東京にもおそらく個人の邸宅の一部をそのように設えただけだろうが、周囲のジャイナ教徒たちがゆったりと参拝できるスペースが確保されている。何の変哲も無いビルの一室なので外から場所を特定する事はまず不可能で、道先案内人が居なければ訪問はかなり難しい。

神戸のインド系は信仰する宗教によって携わる仕事も微妙に棲み分けがなされているようだが、東京でもそうなのかは判らない。ただここ数年増えつつあるインド系IT技術者などに先駆けて来日したインド系商人・ビジネスマンたちが御徒町を拠点としているのは事実で、こうしたヒンドゥーのイベントもそれが故にこの地で開催されたのだろう。ちなみに開催場所はどこかのホールを借りたそうである。

実際、私は参加しなかったのでどのようなイベントであったのかは判らないが、知人たちを見るとやはり願掛けのために前夜から食事を抜いている。
日本でもこのような篤い信仰心・シヴァ神の威光を垣間見た一瞬だった。


posted by asiahunter at 02:26| Comment(0) | TrackBack(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年03月08日

日本入国の方法

日本人旅行者の場合、成田が最終目的地になるのであまりなじみが無いかも知れないが、アジアからアメリカなどに行く場合、成田でトランジット(乗り継ぎ)するケースもある。
通常数時間のタイムラグなため、成田空港外に出る事なく、空港内で時間を潰し別の飛行機に乗ってアメリカなどに旅立つ事になるが、フライト・スケジュールによっては一日以上の成田滞在を余儀なくされる場合があり、その際はトランジットではあるものの一度空港外に出て、トランジット・ヴィザで空港ホテルに泊まる事になるらしい。

成田は世界的に珍しく、24時間体制になっていない国際空港で、これは去年の私の実体験だが、車を成田空港近くの駐車場に置きインドに向かったが、帰国便が最終便で、尚且つそのフライトが1時間ほどディレイ(遅れ)した。
成田空港近くの駐車場もまた、空港開場時間に併せて夜は閉鎖している。
このため空港は出たものの、駐車場が営業時間外のためやむなく引き返して空港内で夜明かしをしようとしたが、基本的に余程の事情(例えば早朝一番の便に乗るために関東エリア以外から来るような乗客など)が無い限り、空港内で夜明かしする事すら禁じている。
というか、その時初めて知ったのだが、徒歩で成田空港には入れない。このため私は空港ゲートで警備している係りの人の車に乗せてもらい、空港内に入った。あと50メートルも歩けば空港の自動ドアなのに、1時間ほども空港ゲートで足止めされている状況に非常にバカバカしいものを感じざるを得なかった。

その後何とか、空港警備を担当している保安関係者に頭を下げて空港内のベンチで一夜を明かしたものの、普段人でごった返している成田空港が、照明が全て落とされ、数人の見回りガードマンの足音のみが聞こえ、他は誰も居ない静まり返った空港に非常に不気味なものを感じた。

このような事情で、航空会社側の事情による乗り継ぎが翌日繰越になる場合は航空会社が空港ホテルを準備するようである。24時間体制にしていないが故なのだろう。こうした経験は私も某国で一度だけした事がある。

通常の入国は難しくても、乗り継ぎのためのトランジット・ヴィザであれば入管も拒絶する理由が無いので発給せざるを得ないのだろうか。
一時的に滞在するためのホテルには入管の係員などが常駐しており、監視の目が光っている。旅客のパスポートなどもホテルに預けなければならないという。彼らとの面会もまた厳しく制限されている。
とはいえ、中にはこの厳しい目をかいくぐり日本の闇夜の街へと逃亡する者も居ると言う。
もちろんパスポートなどは空港ホテルに残したままだ。

日本に滞在するための正規のヴィザ取得が至難の業である事は一度でも入国を試みたアジア人には広く知られている。但しこうしたトランジット・ヴィザはまだ入国方法としてはニッチなのだろうか。
少なくともこうした手口もあるのだという事を初めて知ったのだった。

先日、知人のインド人から
『私の友達が今空港ホテルに居るんだけど、迎えに行って欲しい』
と言われた。てっきり観光か何かで正規に入国した人の送迎と思った私は二つ返事でOKした。
しかしよくよく事情を聞いてみると上のような話しで、何やら犯罪の片棒を担ぐようでもあったので辞退した。
それにしても、そこまでして入国するだけの価値がまだこの国にはあるのだろうかとも思うのだが…


posted by asiahunter at 01:36| Comment(0) | TrackBack(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする