2017年06月26日

【インドネシアのインド系】ジャカルタのインド系移民略史

〜〜ジャカルタのインド系移民略史〜〜

近代になってからのインドネシアにおけるインド系移民はメタンを中心とした北スマトラ島が主で、ジャカルタ(旧バタビア)にインド系移民が流入するようになるのはやや時代が下ってからである。

ジャワ島には18世紀半ばにタミル・ムスリムの貿易商が居住し始め、次いでマラバール(北ケーララ)出身のムスリムが居住するようになった。ただしこうした人口は(当時の宗主国であったオランダの)統計上には出てこない。

ちなみにジャワ島ではこうしたタミル・ムスリム、ケーララ・ムスリム含む外国人移民全般をKojakという呼び名で呼んでいたという。

19世紀初頭に宗主国オランダがフランスに併合され、従来のオランダによるジャワ島の統治が一時的にイギリスによって経営された。その時、現パキスタンのスィンドが1843年にムガール帝国からイギリスの統治下におかれると、特にムスリムよりも仕事上の制約の多かった在スィンド・ヒンドゥー教徒に自由が保障された海外移民がイギリスによって奨励され、多くのヒンドゥー教系のスィンディーがジャカルタに来るようになった。これをジャカルタにおけるインド系移民の第一波と捉えることが出来る。

ジャワに移民したスィンディーは1870年代には既に2つの商会を立ち上げている。その内の一つであるK.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.は驚くことに現在も世界中に支店を構える商社として現存し、(現在の本社は香港)更に日本にも横浜/大阪にも支店がある。取り扱い品は主にテキスタイルや宝石であるらしい。1975年の創立100周年記念の際、支店は全世界26か国に広がっていた。

尚、K.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.大阪のBHAGWAN NARAINDAS氏が所有する大阪のビルは大阪市中央区南本町1-4-6 のBharatビルという。これは流出したパナマ文書に記載されていた情報でネット上に拡散されている。まさかジャカルタのインド人の歴史を調べていてパナマ文書の掲載されているインド人の名前に遭遇するとは思わず大変興味深い。

K.A.J. Chotirmall以外にも多くの大小各スィンディー系商会が登場し、経済的な成功と共に次第に政治的発言力も増していったが、こうした活動は1942年の日本の統治下以降弾圧された。

スィンディーに次いでジャカルタにやってきたのはパンジャブ系移民だった。時代にして1920年代から1940年代にかけてである。スィンディーと違いパンジャブ系移民は直接インドから来るケースは少なく、マレーやシンガポール、また一部はメダンなどの北スマトラから流入するケースが多かったという。とは言えメダンなどの北スマトラに流入していたのは主に北パンジャブ人で、ジャカルタに流入したのは主に東パンジャブ人であったという。

当初彼らは夜警やドアマンなどの雇われ仕事についていたが、次第に自らの商会を立ち上げるようになった。その頃宗主国オランダにスポーツ用品の需要が高まり、Bose & Co.やBir Co. Nahar Sportsなどの商会が設立されていった。スィンディー系の商会が主にテキスタイルやファンシーグッズを扱っていた一方、後発のパンジャブ系商会は主にスポーツ用品の分野で商圏を広げていった。

1925年にはTanjung Priokにジャカルタ初のグルドワーラーがスィク有志によって設立された(2017年現在老朽化により移転)。元来ジャカルタのパンジャブ系の最多居住区だったPasar Bharu地区へのグルドワーラー設立の需要が高まり1954年にYayasam Sikh Gurudwara Missionが組織され、翌1955年にYayasam Sikh Gurudwaraが設立された。総工費は当時の金額で約250,000インドネシア・ルピアであった。





Yayasam Sikh Gurudwaraの外観と内陣

1930年代から第二次大戦にかけての時期にはタミル系の理髪店も多くジャカルタに流入した。彼らの理髪店が多く集まった地域もまたスィクの多いPasar Bharu地区であり、現在でもジャカルタの中では最もインド系住民の多い地区の一つだと思われる。このタミル系が第三の勢力である。

第四の勢力としてグジャラート出身者があげられる。特にグジャラート・ムスリムが多数派であった(ヒンドゥーとムスリムの割合は3対7ぐらい)。彼らは1930年代当初、砂糖を扱う貿易商であったが、次第に茶葉へとシフトしていった。またタミル・ムスリムを除く他のインド系と異なりムスリムであったため戦後は地元のインドネシア女性と婚姻しローカル化していく者も多かった。

尚、1930年にPersatuaan Hindustan Indonesiaといった組織はあったものの、戦前はインド出身者全体が加入するような固定した組織がインドネシアには存在しなかった。戦後1949年になり、こうしたインド出身者を横断する団体であるBombay Merchant Associationが設立された。とは言え参加したのは大半がスィンディー系商会で、パンシャブ系の商会は3社のみだった。またBombay Merchant Associationの初代会長であるT.G.Malkaniが校長となって初のインド人学校Gandhi Memorial Schoolが1958年創立された。創立当初90人だった生徒は半年後には600人を数えるほどになった。

参考:『Indian Communities in South East Asia』K.S.Sandhu, A.Mani
posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■世界のインド人街から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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