2017年06月28日

【インドネシアのインド系】メダンのタミル系移民


メダンを中心とする北スマトラはインドネシア中最大のインド系人口を抱える。
このメダンに於いて、近代移民流入後設立された中で最古のヒンドゥー寺院が1884年建立のマリアンマン寺院である。一泊だけのメダン滞在だが、インド系移民の現在を少しでも見たかったので地元の人に開門時間を聞いて急ぎ訪問した。











プージャリーのダルマさんは祖父の代からのメダン在住。祖父はマドゥライの出身だという。寺院ではタイプーサムやポンガル、シヴァラットリ、ナヴァラットリなど主要なヒンドゥー祭礼を司っている。尚、メダン在住のタミル系はヒンドゥー・ムスリム他合わせて約75000人居るという。



マリアンマン寺院の本尊はマリアンマン、その右にムルガン、左にピライヤールが祀られている(下図参照)。また寺院にはDharm Putra Schoolという学校も併設されている。



〜〜〜メダンに於けるタミル系移民略史〜〜〜
記録として残存する最古のインド人のインドネシア入植は、1873年に25人のタミル人労働者が当時イギリス支配下にあったペナンからタバコのプランターだったオランダのNienhuy社の要請で来たというものである。その後都市部/農地で労働するインド人が増加し、ペナンやシンガポールだけでなく直接本国インドからも移民が流入するようになり、1875年にはタミル/ジャワ人合わせて北スマトラで労働に従事する人口が1,000人に上るようになった。主な仕事は農地の開墾や道路工事だった。

先に移民として入植したタミル人が故郷の若者に声をかけてインドネシアでの仕事を斡旋し、移民を促進したケースもある。こうしたタミル人の中には、本来マラヤで働けると言われて船に乗ったものの到着したら北スマトラだったというような契約労働者もいるという。英領インド政府はこうした移民のオランダ領への流出に消極的だったが官民一体となったオランダのプランテーション会社による度重なる交渉により徐々に両国で取り決めが構築されていった。

マリアンマン寺院Mariamman Kovilは1884年に当時Kampung Klingと呼ばれ、現在はPetisaと呼ばれる地区に設立された。Kampung KlingのKampung はインドネシア語でいう村、Klingは後述するように南インド人の総称である。Kampung Klingはまた別称Kampung Madrasとも呼ばれた。
寺院本尊のマリアンマン女神像はKampung Klingからほど近いJalan Hinduと今日呼ばれている場所に祀られていたものが移設されたという。Jalan Hinduは20世紀初頭にAppasamy Chettiarというチェティナドゥ出身の商人がオランダ政府から与えられた土地を老境になり故郷に戻る前に転売したエリアである。オランダ政府から与えられる以前からこの地にはインド人が多く既に集住地区となっていた。現在もインド人が多くJalan Hinduという通りの名もそのままである。



Kling(キリン族/キリン人)は主にMadras Presidency及びCoromandel coastを出身とする南インド人の総称。Klingの名称は6世紀に南インドに樹立したカリンガ朝を由来とする。この内特にマレーシア(マラヤ)ではタミル・ムスリムの事はChuliasと呼ばれていた。またベンガリー(ベンガル人)は広く北インド人を総称。昭和初期にこの地を旅した金子光晴『マレー蘭印紀行』中公文庫109ページには「牛糞の灰をぬりつけ、蓬髪、痩躯の印度キリン族。兇猛で、こころのねじけたベンガリー人。」という記述がある。
posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■世界のインド人街から | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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