
ヒンドゥー寺院に集まっていたインド人たち(皆さん国籍はインドのままの方が大半)は、ほとんどが北中城の旧コザ市のゲート周辺で衣料品店を経営している。店名はインド、ボンベイ、サティーなどいかにもインドを連想させる名称が少なくない。ムンバイではなくボンベイであり、書体も含めて60〜70年代のレトロなインドがそのまま残っていて多少興味深い。





置いてあるのはいかにも一昔前のアメリカ人が好みそうな衣料品だが気の毒なほど客足が少ない。
ちなみにゲート通りとはかつて存在した嘉手納基地第2ゲートに至る通りだったことから呼称されるようになった名称。戦後の米占領時代から特にベトナム戦争時には多くの米兵が街中にあふれ、在沖縄インド人の商売も最盛期だったという。
景気は徐々に後退し、特に1972年の沖縄返還以降、流通していた米ドルから円への切り替え及び円高ドル安のあおりでアメリカ人の購買力の低下や賃貸料などの諸経費の高騰、近隣に巨大なイオンモールの出現などの影響で主にアパレル系の小売店を経営している彼らには厳しい経済状況が続いている。ちなみにこのイオンモールはイオンモール・ライカム沖縄という名称で、このライカムRycomとはかつてこの地に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)の略称である。




インディアン・テイラーのサンジャイ・サマーダーサニーさん。お店の名刺の他に、キリスト教の教会活動をしているという名刺をいただいた。名前はいかにもなヒンドゥー教徒だが、沖縄の第二世代は在沖縄のキリスト教系の学校に主に通っているためキリスト教により親近感を感じる傾向にあり中にはクリスチャンに改宗する人もいるという。また第二世代は第一世代よりも当然シンディー語の能力は低下しているが、コミュニティーとして特に学習会などを行うといった事はないらしい。

ゲートから少し離れたパークアベニューにあるインド雑貨を扱うインド屋のビクター(ヴィシュヌ)さんは以前娘さんに連れられてナマステインディアに来たことがあり、その際名刺も頂いていた。やはり客のいないお店を訪ねるとチャイを出していろいろと話してくれた。


ビクターさんも他のインド人同様元々香港で働いていたスィンディー・パンジャビーで(店の片隅にグル・ナーナクを祀る神棚がある)、その会社から派遣されて沖縄に来た。その後74年に友人たちと共にテイラーを開業したが友人たちが辞めたため一人となり、日本人も対象にすべくパークアベニューのアーケードができる82年にインド雑貨を扱うインド屋として形態を変更。その頃が最も景気が良く、4店舗構えていたしこの頃結婚したという。その頃は座るヒマも無い程の忙しさだったが、次第に景気も退潮して現在に至る。たまにインドに行って直接仕入れたりもするが昔ほど頻繁ではない。
ビクターさんからは他にスィンディー系のオーナーが経営するインド料理店や彼の友人が経営するインド料理店を紹介してもらった。「あそこのオーナーはいい人だから食器も買ってくれるよ」など優しいアドバイスもいただいた。
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