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2017年04月10日

【ナマステ福岡への道 vol.12】旧コザ市のインド系衣料品店




ヒンドゥー寺院に集まっていたインド人たち(皆さん国籍はインドのままの方が大半)は、ほとんどが北中城の旧コザ市のゲート周辺で衣料品店を経営している。店名はインド、ボンベイ、サティーなどいかにもインドを連想させる名称が少なくない。ムンバイではなくボンベイであり、書体も含めて60〜70年代のレトロなインドがそのまま残っていて多少興味深い。











置いてあるのはいかにも一昔前のアメリカ人が好みそうな衣料品だが気の毒なほど客足が少ない。

ちなみにゲート通りとはかつて存在した嘉手納基地第2ゲートに至る通りだったことから呼称されるようになった名称。戦後の米占領時代から特にベトナム戦争時には多くの米兵が街中にあふれ、在沖縄インド人の商売も最盛期だったという。

景気は徐々に後退し、特に1972年の沖縄返還以降、流通していた米ドルから円への切り替え及び円高ドル安のあおりでアメリカ人の購買力の低下や賃貸料などの諸経費の高騰、近隣に巨大なイオンモールの出現などの影響で主にアパレル系の小売店を経営している彼らには厳しい経済状況が続いている。ちなみにこのイオンモールはイオンモール・ライカム沖縄という名称で、このライカムRycomとはかつてこの地に置かれていた琉球米軍司令部(Ryukyu Command Headquarters)の略称である。










インディアン・テイラーのサンジャイ・サマーダーサニーさん。お店の名刺の他に、キリスト教の教会活動をしているという名刺をいただいた。名前はいかにもなヒンドゥー教徒だが、沖縄の第二世代は在沖縄のキリスト教系の学校に主に通っているためキリスト教により親近感を感じる傾向にあり中にはクリスチャンに改宗する人もいるという。また第二世代は第一世代よりも当然シンディー語の能力は低下しているが、コミュニティーとして特に学習会などを行うといった事はないらしい。




ゲートから少し離れたパークアベニューにあるインド雑貨を扱うインド屋のビクター(ヴィシュヌ)さんは以前娘さんに連れられてナマステインディアに来たことがあり、その際名刺も頂いていた。やはり客のいないお店を訪ねるとチャイを出していろいろと話してくれた。





ビクターさんも他のインド人同様元々香港で働いていたスィンディー・パンジャビーで(店の片隅にグル・ナーナクを祀る神棚がある)、その会社から派遣されて沖縄に来た。その後74年に友人たちと共にテイラーを開業したが友人たちが辞めたため一人となり、日本人も対象にすべくパークアベニューのアーケードができる82年にインド雑貨を扱うインド屋として形態を変更。その頃が最も景気が良く、4店舗構えていたしこの頃結婚したという。その頃は座るヒマも無い程の忙しさだったが、次第に景気も退潮して現在に至る。たまにインドに行って直接仕入れたりもするが昔ほど頻繁ではない。


ビクターさんからは他にスィンディー系のオーナーが経営するインド料理店や彼の友人が経営するインド料理店を紹介してもらった。「あそこのオーナーはいい人だから食器も買ってくれるよ」など優しいアドバイスもいただいた。


posted by asiahunter at 20:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.11】在沖縄インド人宅でのランチ


ヒンドゥー寺院に月曜午前に集まったインド人たちは程なくして解散し、それぞれ自分たちの経営する店に行き仕事を開始する。とはいえ皆さん自営業かつ高齢で、また店も忙しくないので割とのんびりとしている。

キドワニさんにバジャンの後いろいろ話しを聞いていたらそろそろ寺院を閉める時間だという。まだまだ聞きたい事があるのに…というのを察知してくれたのか「続きは自宅に来てナシュタ(軽食)でもしながらしますか?」と言ってくれる。見ず知らずの外人のオジさんに対するこの温かい対応。皆さん日本語も堪能なのにあえてヒンディー語で通していたのが功を奏したのかもしれない…。



軽バンの後を付いて行って彼らのご自宅へ。5階建てのやや古いマンションで、玄関前にはカレーリーフとタマリンドが鉢植えされていた。アーンドラ料理にタマリンドの葉も使うという、こないだ知ったばかりの事を確認すると数枚千切ってくれ、じゃあ食べてみなさいという。食べてみたら特に酸味はなく葉っぱの味だった。





旦那さんとスィンディーについて、また沖縄のインドコミュニティについて、彼らのような旧世代とITエンジニアなどの新世代とのギャップなどについてetc 話題が尽きなかったが、そろそろ最も目当てにしていた家庭料理の準備が出来たようだ。





まず薄切り食パンの上に無造作にチャナーのカレーがかけられる。辛いのは大丈夫か?と聞かれるが程よい辛味。食パンを食べ終えるとライスはどうかとすすめられ、タッパーに保存しておいたカレラ(ゴーヤ)のサブジ、ダール、ミント・チャトニも出してくれ、さらにチャパティまで出してくれた。







こうした家庭料理は当然ながら全て美味く、こういう機会に恵まれただけでも沖縄に来た甲斐があったと感じさせられた。







周囲は道の至るところに半ば朽ちかけたバナナの木を目にする。
葉っぱだけでも欲しくなり、レンタカーを置いて思わず駆け寄ってみる。


posted by asiahunter at 07:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【ナマステ福岡への道 vol.10】沖縄ヒンドゥー寺院


到着翌朝、1985年に設立されたという沖縄ヒンドゥー寺院へ向かった。
毎週月曜はグル・グラントサーヒブなどスィク教グルへのバジャンを唱和している。実はこの月曜の集まりを見物するのが目当てでやや急いで沖縄inしたのだった。





ここに集まっているのは主に旧コザ市のゲート地区で衣料品販売しているスィンディー・パンジャビーの人々である。皆さんかなり高齢化している。バジャンの集まりは毎週あるが、年間に行われる行事で大きなものはディワリとスィンディー正月であるCheti Chandである。こうした時には料理も併設のキッチンで調理され出されるという。








 ↑撮影したバジャンの動画

現在の寺院が出来る以前の参拝や宗教儀礼はどうしていたかというと、有志4人で費用を出し合い1970年代は嘉手納の方で部屋を借りて祭壇を作ってそうした行事に当てていたという。

その後1985年にこのヒンドゥーマンディル(ヒンドゥー寺院)は、在沖縄スィンディーコミュニティー・メンバーやその他国内(横浜/神戸)のスィンディーコミュニティー、またインド各地のスィンディーコミュニティーからの寄付金などを募って設立された。元々は外国人向けの賃貸住宅であったものを買い取り、玄関の上に寺院らしくドームを施し、外装も北インドの寺院によくある肌色のペイントを施している。



集まっているスィンディー・パンジャビーという人たちは、多くは現在パキスタン領土内のハイデラバード出身である。信仰はスィク教を信仰していて、この日のバジャン(神様への献歌)もグル・ナーナクなどのスィク教の神に対するものだったが、あくまでヒンドゥーであり外見的にターバンや腕輪などスィク教徒を特徴付けるものは身に付けていない。

2002年に訪問した東京スィク寺院の様子
2015年に訪問した神戸スィク寺院の様子

彼らの多くは沖縄返還前に主に香港から渡って来た人たちである。最初から現在のような自営業ではなく、主に香港ベースのアパレル系企業が沖縄に支店を構えるのに伴い来日している。ちなみに当時の月給は35ドルだったらしい。それらのアパレル企業は撤退したり閉鎖したりするのに伴い店舗を構えて独立している。独立した時期は人によってまちまちだが沖縄返還後の70年代が多い。当時は対ドルレートも良く多くの従業員を雇っていたという。彼らの店の多くは旧コザ市のゲート地区に今もあるが、ここ数年はかなり景気が厳しいらしい。





集まっていた方々の名前を聞くとマノーハル・パンジャービーなどファミリー・ネームがパンジャビーという人がいる。パンジャーブ州の人にもそのような名前は無いのにスィンディーのスィク教信奉者がそのような家族名なのが興味深い。そしてまたスィク教信奉者でありながらヒンドゥー教徒でもあるらしい。こうした信仰の形態の人々に触れる機会が無かったので非常に新鮮だった。

彼らはまた来日当初の商売上、アメリカネームを持つ人が大半で、上記のマノーハル氏はマイク、シェーワク・キドワニ氏はサムといった具合だった。アメリカ人向けに呼びやすい名前にしないと仕事に差し障るらしい。


壁のインド地図を指し示しながら自らの出自などを丁寧に語ってくれたマノーハル氏

シェーワク氏の奥さんでバジャンの陣頭に立っていたラジャ二・キドワニさんのアメリカネームは無い。米兵相手のビジネス上のものだから専業主婦の妻にはアメリカネームは無い。



掲示板に貼られていた年間祭礼スケジュール

posted by asiahunter at 00:00| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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