2009年04月28日

スラムドッグ・ミリオネア

先日、アカデミー賞8部門受賞で話題の『スラムドッグ・ミリオネア』を錦糸町東宝で見てきた。これほど前評判の高いインド系映画も少ないので、期待に胸が膨らむ。


ストーリーはボンベイのスラム出身の兄弟が、互いに裏切ったり結びついたりしながら成長していく、主人公の成長には同じスラム出身の女の子との恋愛が絡む、そうしたシーンが主人公の回想として、出演するクイズ番組シーンの中で表現されつつ、最終的に2,000万ルピーを獲得するというストーリー。
ストーリーや展開、刺激的な映像など面白く確かに楽しめたが、果たしてアカデミー賞など錚々たる映画賞を受賞する程なのか、今ひとつ釈然としない気がした。全くの個人的印象だが、数年前、同様にアカデミー賞ノミネートされた『ラガーン』の方が数倍感動した。

釈然としない理由はこの作品の非現実的な舞台設定とキャラ設定で、舞台設定という事で言えばまず、この映画全編通して基調となっている「クイズ・ミリオネア」は、日本同様インドでも2000年からテレビ放映され、社会現象化する程の物凄いブームを引き起こした。司会のアミターブ・バッチャンの番組中の台詞「(答えを)ロックしますよ」が流行語になったり、「一昔前の俳優」になりつつあったアミターブ自身の人気が再燃したりした。また同様のインド版クイズ番組が多く作られ、ゴーヴィンダーやアヌパム・ケールといったおしゃべりでコミカルと目された俳優たちが司会に起用された。(とは言え皆アミターブ程の司会上手ではなかったためどの番組も短命に終わった)周囲のインド人たちは(番組に出演しようと)いつも電話しているが繋がらない…と言っていた。こうした一連の動きはリアルタイムでインドに滞在していたのでよく分かる。

この映画のキャラ設定だが、まず社会構造的にスラム出身者がインドのテレビ、とりわけこうした人気クイズ番組に出演する事などありえない。実際のクイズ番組でもスラム出身者では当然無いが、あまり英語が喋れず社会的地位も高くない地方出身者が番組に出場したとき、アミターブは非常にやりずらそうにしていた。またインドでは英語はインテリ語なのでスラム出身者が英語でやり取りをしている事自体、非常に無理を感じる。ボンベイのマフィアやスラムを題材にしたインド映画は非常に多く、描き方などもこの『スラムドッグ』よりももっとどぎつくえげつないものが多いが、そうしたシーンで使用される言語は訛りのきついヒンディー・スラングであり、如何に汚い言葉を自然に回せるかでその俳優の技量が問われるという面がある。アーミル・カーンのような台詞回しの上手い役者やサンジャイ・ダットのような生き方そのものがアンダーグラウンドな俳優たちはここで聴衆の喝采と野卑な笑いを得るのである。逆に解りやす過ぎて多用されない手法だが、社会的地位の高さを表現するために台詞に英語を混ぜる場合もある。つまり英語の台詞とはインド映画にとってそのような存在なのであり、そういう固定概念が染み付いている者としては「スラムの犬」が英語を話すという不自然さが結局ラストまで払拭出来なかった。
あとあんまり関係ないが、予告で使われているThe Ting Tingsの「Great DJ」が劇中使われていなかったのが少し残念だった。
posted by asiahunter at 09:13| Comment(0) | ■インド文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月07日

シンガポール・リトルインディア vol.2

現在、シンガポールのリトルインディアはセラングーン・ロードの南部を中心に展開している。セラングーン・ロードはシンガポールを縦横に走る現在のシンガポールでも代表的な道路だが、その造成は早く既に1822年に発行された地図にその初出が見られ、1828年には『島をクロスする通り(road leading across the island)』と地図には記載されている。1836年頃には現在とほぼ同じ長さ・位置に造成された。
(参考:Sharon Siddique, Nirmala Puru Shotam著 『Singapore Little India-past, present and future』)


最初期のインド系移民が、現在のリトルインディアのあるセラングーン・ロード上に集まりだしたのは19世紀初頭で、南インド系移民のうち畜産業者がここに集まり乳製品や畜産物などを取引する小規模のバザールが展開された。こうしたバザールは現在のインド農村部などで今でも見られるものである。
現在ではその面影は全く無いが、セラングーン・ロードのムスタファの建つシェィド・アルヴィ・ロードのすぐ北には澄んだ水を湛える池があり、水牛などの水浴び場として活用されていた。その名残としてリトルインディアには「バッファロー・ロード」という路地も存在する。
このようにリトルインディアは家畜業者の集住地域となった。動物は畜産用に限らず、車の無かった当時の馬車や牛車用といった運搬具としても多く活用された。

↑インドでは現在も馬車が重要な公共交通。

セラングーン・ロードからほど近いブラス・ベーサン・ロード(現在のドービー・ゴート付近)には当時インド人受刑者が収監されている刑務所があり、刑務所に付随するクリーニングや食事などの業務に従事する南インド系業者が居住するようになった。こうしてセラングーン・ロードは畜産業を中心に徐々にインド系住民を増やしていく。人口の集中に伴い、1936年にセラングーン・ロード地区に家畜の入出が当局によって禁じられて以降は本格的に南インド系の商業地・居住地として発展し今日に至る。尚、当時北インド系移民はシンガポール川以北にあるハイストリート周辺に集住していた。


ちなみにシンガポールに於ける在インド人人口の推移という興味深い統計がある。
1821年・・・132人
1881年・・・12,138人
1891年・・・16,035人
1901年・・・17,845人
1911年・・・28,454人
1921年・・・32,678人
1931年・・・50,860人
1947年・・・68,978人
1957年・・・124,084人
1966年・・・135,800人
1970年・・・145,100人
1980年・・・154,600人
1990年・・・190,900人
1819年1月28日、シンガポール建国の父と称されるラッフルズが上陸した際に付随したセポイ(インド兵士)が120人、これに使用人や調理人などに加え、その後ペナンから移住して来た者も加えて1821年の人口調査では在シンガポール・インド人は132人だったという。



1930年代のシンガポールを放浪した金子光晴の『マレー蘭印紀行』の中で、そこに登場するインド人は以下のように記述されている。

『額に牛糞の灰をぬりつけ、蓬髪、痩躯の印度キリン族。凶猛で、こころのねじけたベンガリー人』『百姓たちのゴム園は、抵当流れの形で、印度人の金貸業チッテの手に収まってゆく。強欲非道でならした猶太人も、奸けつなベンガル商人も、アラビア人も土民に烏金を貸して肥え太ってゆくチッテのやりくちには三舎を避けるという』

この中に登場する印度キリン族とは単に南インド系移民の総称であり(Klimgs)、ベンガリーとは北インド出身者の総称(Benggalis)である。この他、南インド・タミル出身のムスリムをナーナク(Nanaks)と呼んだり南インド・マラーヤラム出身のムスリムをモパラ(Moplahs)、南インド出身の商人をチュリア(Chulias)と、シンガポールの中では呼称されていた。
またインド系の金貸業者も19世紀には既に存在し、こうしたインド系の小規模金融業者はシンガポールでは既に見られないが、ペナンなどのインド人街などでは多く眼にすることが出来る。




インド人とスイーツは切り離して語れない。

posted by asiahunter at 17:25| Comment(0) | ■東南アジア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする