2007年10月29日

北インドの朝めし

■北インドの朝めしとして代表的なのは『プーリー・サブジー』、『アールー・パラータ』、『チョーレー・バトゥーレ』などであろう。これらは食ジャンルとしては軽食(スナック)の範疇に入りながらも、同様に多くのインド人に好まれている数枚のビスケットとチャイ、という比較的軽めのイギリス的な朝食に比べて、その調理過程に油とマサーラーを多用する点で正統派インド式朝食と呼ぶにふさわしいメニューと言えよう。

■これらインド式朝食は家庭で作られる事も多いが、朝食専門店も存在する。デリーなどでは主に立ち食い形式を取り、活気のある店内は常連で一杯で、料金回収の手間を省くために食券コインを使用している店も少なくない。またそうした店ではテイクアウトも可能で、具材を盛るためのサーラの葉皿も付けてくれる。


■人気店で食べる『チョーレー・バトゥーレ』は絶品で、朝以外も食べたいと思っても大概は朝のみの営業である事が多い。バトゥーレの形状はプーリーを大きくしたようなものだが、食感がプーリーよりもモチモチし、丁寧な店では中にダニヤやメーティなどの香草を練りこんでいる。要はナーンを油で揚げたものと思えばよい。朝にはやや重いようにも感じるが、付け合せのアチャールの酸味が程よい刺激を与え、食欲は増進する。

■日本のインドレストランではなぜかこれら正統派インド式朝食をサーブする店が少ない。それはレストランオーナーである多くの在日インド人たちの価値観が「レストラン=高級」志向なため(ナーンは出すがチャパティはメニーに無い事にも見て取れる)、ストリートフードをメニューに加えるという発想が欠如しているせいだが、『チョーレー・バトゥーレ』などランチメニューとしても充分バリューがある一品と思われるだけに残念至極である。
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2007年10月25日

ドゥルガ・プジャ

10月20日、品川区大井町駅近くの貸しホールにて在日ベンガル人主催のドゥルガ・プジャが盛大に執り行なわれた。

主催者の居住地の関係からか毎年この催しは大田区大森近辺で開催される。祭りの際に配られる冊子『Anjali』に今回、広告掲載の依頼があり承諾したのと、生後数ヶ月の赤ん坊を抱える知合いのベンガル人夫婦から車を出して欲しいという依頼があったため数年ぶりにイベント会場に足を運んだ。ちなみに、地元ベンガルでもドゥルガ・プジャの時期が近づくとこうした祭りをフィーチャーした小冊子が複数発刊される。そのほとんどがベンガル語による記述なので具体的な内容は不明だが、かなりな厚みがあり、祭礼の時期・手順など事細かに記載されているようであり、またこうした伝統はインドの中で最も活字に親しんでいるとされるベンガル人ならではと感じさせる。

今回のドゥルガ・プジャは元来カルカッタ出身の在日ベンガル人によって主催されたものだが、個人的に把握している限り都内近郊に於ける在日ベンガル人グループは三つの団体が存在し、それぞれ別個にドゥルガ・プジャを催している。そのうち特にバングラディシュ系ヒンドゥー教徒の主催するドゥルガ・プジャは非常に規模が大きく動員数も多いが、大田区を中心とする今回の在日ベンガル人グループは比較的規模が小さいと、数年前に一度訪れた時は感じたが、今回ホールを見てその動員数に驚いた。ここ数年IT系インド人の流入著しいが、その大半はタミル人、テルグー人、マラティー人で、個人的に知っている範囲のIT系ベンガル人はごく限られていたので、同イベントも小さいホールでアットホームな感じで行われるだろうという想像が見事に裏切られた。中規模のイベントホールはベンガル人で正に埋め尽くされんばかりの感があった。

ホール最奥には比較的大きなドゥルガー女神像が祭られ、集まってきた参拝にプージャリーからアムリタなどが饗され、その傍らではプラサードが配られていた。
この女神像はインドで製造され、本来は毎年河流しされるべきではあるが日本である為そうは出来ず、とはいえ三年に一度はリニューアルされ、新しい女神像が本国から(おそらく船便で)輸入される。

ホールの一角にはゴールガッパを配るテーブルが設えられ、女性や子供が大挙して群がっている。

外国に於いて行われる伝統行事がいずれもそうであるように、儀式の進め方は簡略化されてはいるが、それでも尚伝統に忠実であらんとする姿が垣間見れて清々しい気分に浸れるひと時である。尚、ベンガルに於ける実際のドゥルガ・プジャの展開・手順は以下のように繰り広げられる。(記したのは1998年)


アッシン月白分第
6日(シャシュティ)
―この日の深夜より司祭がマントラを唱えながら女神ドゥルガーを勧請する―
ドゥルガ女神はそれぞれのパラ(街区)におけるコミュニティーによって祀られる。コミュニティーとは分かりやすく言えば町内会であろうか。この町内会毎に女神像、及び儀礼に付随する諸々が準備されるのだ。この準備にかかる費用としてのチャーンダ(花代)はすべてのコミュニティー構成員から徴収される。人々が金を出し合って女神に来てもらうのだ。同じ目的に向かって作業を同じくすることでコミュニティー内の結束力も高まる。元よりカースト制度の支配するインドでは特に宗教的な局面において地縁的結束を見せることは非常に希である。聖地巡礼などでも同じカーストの人々が団を作っていることが大半である。そんな中にあってベンガルはカーストによる差別化の度合いが比較的薄いといわれる。その理由を英国支配下で成立した都市・カルカッタの自由で新進の気風に求める場合も多いが、そうではなく、以下の理由で元来ベンガル人が持つものであったと想像出来る。
女神信仰は再生されるものの力への信仰で、これをタントラという。再生肯定、ひいては現世肯定に結実したこの革命的思想は、この世を「苦」とみなしそこからの解脱を求めるという、それまで支配的だった現世否定の思想と対極の世界観を持つ。中世期のヒンドゥー思想、仏教思想はこのタントラの影響を色濃く受けている。豊かな恵みを与えてくれる大地を母に見立て信仰する。これがタントラ思想の端緒である。この思想を生み出し得た背景にはベンガルの豊穣がある。偉大な大地の前に人間の序列など取るに足りず、タントラが反カースト的思想であることの原理はその辺にあるのだろうし、ベンガルのドゥルガ・プジャが地縁結合のコミュニティーによってプジャを成立させている訳もその辺に求めてよいのかも知れない。

アッシン月白分第7日(ショプトミ)
―この日より正式にドゥルガ女神が降臨したことになる。事実上この日よりプジャは開始される―
市内に出現したバンダルを巡る。バンダル内には光り輝くドゥルガ女神像が鎮座している。夜になると竹組みに布地を張ったパンダルは内側からの灯かりで巨大な行灯のような発光体と化す。そのパンダルをする囲繞するようにしてさらに夜目に眩しい電飾のイルミネーションが展開されている。電飾は神話上の伝説から幾何学的なものまでありとあらゆるデザインを、色とりどりの小さな電球一つ一つで作り上げて構成されている。いたるところに巨大な発電装置が地響きを上げて回転しているが大群集の喧騒はそれをもかき消す。毎年、カルカッタではパンダルや女神像の美しさを競うコンテストが行われる。コンテスト上位常連の有名なパンダルの前は大混雑していて中に入るのに優に12時間かかることもざらである。 
一つ一つのパンダルに入ると、それぞれまったくスタイルの異なる女神像を見ることが出来る。こうした女神像はそれぞれのコミュニティーが職人に発注したものである。ベンガル最大の祭、ドゥルガ・プジャは彼ら職人にとって最大の稼ぎ時である。年と共にドゥルガ女神像の顔や服装も変化するが、それは顧客たるコミュニティーの意向によるものである。従って女神像のデザインや特に顔には流行があり、例えば映画女優に似ている場合もあったりする。また逆に古典的なスタイルを毎年注文する保守的なコミュニティーもある。
神像作りの工房の密集する街区、クマール・トゥリはカルカッタ市内北部、フーグリ河に面している。カルカッタは、その流入する人口によってその都度拡大してきた巨大な都市だが、クマール・トゥリのある一帯はカルカッタの中でも最も歴史が古い街区の一つであるという。クマール(クムバカール)とは陶工、トゥリとは絵筆を意味する。約400平方メートルという狭い街区の中に約200の工房があり、約2500人の職人が働いている。彼らはほぼすべてパール姓を持つ。これはチトラカール(絵師)カーストの名である。
神像の作り方は、まず竹によって骨格となる部分を組み、ワラで輪郭を付けていく。その上からフーグリ河で取れた粘土で肉付けていく。陰干しして乾燥させては再び塗り重ね、次第にふくよかな女神が顕在することとなる。この神像作りに用いられる良質の粘土は、カルカッタ周辺では既に取り尽くされていて、現在ではカルカッタより3~40km南下したウルベリア村において採掘され、舟によってクマール・トゥリ・ガートまで運ばれる。そこで採掘される粘土も近年枯渇しかけているといわれ、値が高騰している。粘土で形どられた神像には原色の彩色がほどこされる。この彩色には最近では化学塗料が用いられることが多い。こうして出来上がった女神像に衣装や装飾品が着せられる。その衣装や装飾品を製造している職人たちもクマール・トゥリに居を構えている。こうして完成した女神像は、平均30000ルピー(約9万円)で各コミュニティーに売られることとなる。

アッシン月白分第8日(モハ・オシュトミ)
―――盛大なプシュパンジャリ(女神に対する献花儀礼)が行われる―――
祭も後半になってくると、窓の外では既にダーキー(太鼓奏者)の打ち鳴らす太鼓の連続的なリズムが始まっている。それと共に、妙な甲高い裏声の合唱が聞こえる。それはウルと呼ばれる、女性による女神歓待のための呼び声であった。口中舌をすばやく左右させながら裏声を出す。すると「ウルウル…」というように聞こえる。また同時に、複数の女性によってシャンクと呼ばれる法螺貝が吹かれる。祭の中で女性の果たす役割が大きい。女神崇拝の盛んなベンガルの祭の特色である。毎日、女神に対して献花儀礼は行われているが、この日は特に盛大に、大勢の人が集まって行われる。人々は両手に花を持ち、司祭の指示に従って4回に分けて花を女神の足元に投げかける。その間も、ダーキーの鳴らす太鼓の音は鳴り止むことがない。ダーク(太鼓)を叩くバチは左右で長さが異なる。これはダークを袈裟がけに肩から掛けているためであろう。右手に持つバチはおよそ35cm程、左手に持つバチは20cm程だ。

アッシン月白分第9日(ノバミ)
―非常に伝統的な儀礼のため、昨今では行われていないが、少女たちによるクマーリー・プジャが執り行われる―
一般的なヒンドゥー聖典ではドゥルガはシヴァ神妃ということになっている。ゴネシュ(ガネーシャ)、カルティックがその息子である、としている点も確かにドゥルガをパールヴァティの異相とすれば納得できる。が、しかしベンガルではロッキー(ラクシュミー)、ショロショッティ(サラスヴァティー)という、それぞれ一般のヒンドゥー聖典ではヴィシュヌ神、ブラフマ神の妃とされている神々もまたドゥルガの娘ということになっている。この事に関する記述は15世紀後半のポッドティ(儀礼書)に初出している。が、祭祀の起源はそれより遥か昔に溯るのであろうし、それがどのような経緯でそのような形を取るに至ったのかは分からない。吸収された民間・部族信仰の神格がヒンドゥー神格の形を取った時、それまでの信仰の影響力の大きさに正統とされる聖典の側を変化させてしまう、という事例は程度の差こそあれ、他の地方にも言えることである。こうして絶え間なく聖典は生産されていくのだ。このポッドティには、上記4体のドゥルガの子供である神格たちは4つのヴァルナ(カースト)の象徴であり、子供とすることによってその統合を示している、とされている。
ベンガルにおける縁起はともかくとして、一般に流布している聖典上のドゥルガの記述は以下の通りである。
「むかし、魔神オシュールは軍団を引き連れてヴェーダの神々と1000年に渡る戦いをしていた。オシュールは強く、神々を破って天界から追放してしまう。神々はヴィシュヌ神やシヴァ神らに助けを求めた。激怒したヴィシュヌ神やシヴァ神らの口から激しい怒りの光が出た。その光は怒れる女神・ドゥルガの姿となって具現化した。シヴァ神はトリシュリ(三叉矛)、ヴィシュヌ神はチャクラ(円盤)など、ドゥルガの10本の手にはそれぞれの神からオシュールを倒すべく授かった武器が持たされた。ライオンに乗った最強の女神・ドゥルガはオシュールの軍団を倒す。オシュールは水牛、ライオン、人間など次々にその姿を変えて戦った。水牛から人間の姿として現われ出ようとしていたところをシヴァ神から授かったトリシュリの一撃で倒した」(『マールカンディーヤ・プラーナ』)
この場面は今日のドゥルガ・プジャの神像製作のモチーフにも非常に多く用いられている。中には大変リアルに表現されているものもあり、大迫力で見るものに迫ってくる。しかし、そんなパンダル内部の祭壇の一角に、あまり目立たずに置かれている神がいる。それはコラボウと呼ばれる女神である。ベンガルではガネーシャ神の妻とされる。他の神像がフーグリ河の土によって形作られているのに対し、この女神はバナナをはじめとする9つの植物を束にしたもので、それにサリー着せていて大変ユニークな外見である。実際、上記のような一般的なヒンドゥー聖典ではガネーシャ神が妻帯であるというような記述はない。が、ベンガルの人に聞くと誰でもガネーシャの妻はコラボウだ、という答えが返って来る。地方によって信仰されている神格、神話が異なるにせよ、ここまで変化させてしまうのは大変興味深い。コラボウ信仰は植物に対する信仰だ。豊穣の大地ベンガルではその豊穣の象徴である植物への崇拝をこのような形で表しているのだろう。

アッシン月白分第10日(ドショミ)
―――既婚女性たちによるボロン(女神の送別儀礼)、シンドール・ケラ(シンドールを女神像、またお互いに付け合う儀礼)、最終的に女神像をフーグリ河に流すビショルジョンが行われる。 ビショルジョンの後、女神と娘、息子たちは天界へと帰還する―――
この日、既婚女性のみによってボロン及びシンドール・ケラという儀礼が行われる。共に既婚女性による女神との離別儀礼である。ボロンは一つの皿に菓子、コイン、花、シンドール、プロディープ(灯明)などを乗せ、女神に奉げる儀礼である。シンドール・ケラはその皿の中のシンドールを女神像、及び女性たち同士で付け合う儀礼である。シンドールは既婚女性を象徴するものであり、彼女たちは今後も毎年シンドールを付けられるような生活を送れることをこの儀礼を通じて祈る。寡婦はシンドールを付けられない。自らが寡婦とならないように、ひいては夫の長寿、健康をこの儀礼によって祈る訳だ。「ケラ」とは「遊び」を意味する言葉であり、そこには儀礼の持つ重々しさは微塵もない。女性たちは文字通り嬌声を上げながら、本来頭髪の分け目にのみ付けるはずのシンドールを互いの額や頬に付け合って遊び、楽しむ。
女性たちが充分にシンドールで遊んだ後、女神像はいよいよガンガーに流され、天界へ帰還することとなる。ガンガーの泥で作られた女神像は再びガンガーの泥となる。そして翌年再び、ガンガーの泥で女神像は蘇るのだ。この、女神像を河に流す最終儀礼をビショルジョンという。カルカッタにおいて、最も盛大にこのビショルジョンが行われるのはバブ・ガートである。そこには巨大な女神像が一堂に会し犇めいている。集結した数百人を越える人々の罵声と怒号が飛び交っている。数十人のクーリーに担がれた女神像は傾斜となっているガートの上の方からなだれ落ちるように河へと突き進む。その光景に茫然とし、気でも取られていたらすぐさま後ろからやってくる別の一団に担がれた女神にひき潰されそうだ。クーリーたちは歯を食いしばり、目は血走って死にもの狂いの形相をしている。というのも河に流すまで女神を絶対に倒してはいけないからだ。こうしてガンガー(フーグリー河)に流された女神たちは河を辿って天界に帰し、来年の降臨まで一時姿を消すのである。


posted by asiahunter at 05:21| Comment(0) | ■在日インド系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月12日

インドより帰国しました

インド仕入より帰国しました。
帰国直後にお世話になっています麻矢鈴さん主催の舞踊イベント『
月夜の宴』の出店させていただいたり、またナマステインディアの出店と準備もあった他、インド発送の荷物の通関、インドへの連絡などが重なり大変慌しかったため、ご注文いただいたお客様並びに関係各位の皆様へのご連絡が遅れてご迷惑おかけいたしました。

月夜の宴』は音と舞踊で大変雰囲気のある世界を構築していていつもながら幻惑されました。ナマステインディアでは両日共に生憎の雨でしたがお買い上げいただいたお客様には心より感謝申し上げます。同イベントには築地本願寺の頃より参加させていただいていますが、雨に祟られたのは今回が初めてで、雨天の野外イベントの難しさを改めて認識しました。今までも土砂降りの中の野外フェスなど何度も経験していますが、いつも対策に苦慮します。

話し変わって今回のインド滞在でもいつも通り陽のある内は問屋街を回り、夜は疲れ果ててエアコン全開の部屋でTVを見ながらグッタリ横たわるという日常を過ごしました。
ある夜何気なくザッピングしていると『Indian Idol 3』という歌のコンテスト番組が放映されていて、ジョン・エイブラハムとビパッシャー・バースーに率いられた最終決戦の出場者二人が登場、審査員もアヌ・マリック、アリーシャー、ウディット・ナーラーヤンといったインディーポップ界を代表する重鎮たちが並んでいたので思わず番組に釘付けになりました。
ここで奇異に思ったのは出場者二人のうち一人が明らかにルックスがネパール系だった事で、二人の歌声がいかにもインド人好みの、インドの菓子のように甘いものでその歌唱力は甲乙付け難いものだったのでルックスやバックボーンからしてネパール系は次点かと思いきや、あにはからんやネパール系が優勝してしまった。特に北インド系の人々のネパール人に対する意識からして非常に意外な感じがした。だがその事実よりも個人的に印象深かったのはこの時の審査員の言動、特にアヌ・マリックのそこまで言うかというオーバーな賛辞とそれに深く同意する会場内の、日本の深夜通販番組の聴衆を思わせるような作り込まれた雰囲気だった。


尚、この番組の裏事情に関して『
インド通信』のホームページに大変興味深いレポートが掲載されています。また同番組はYouTubeなどで見ることが出来ます。
インドから帰国して数日後、旧知のネパール人Kさんから連絡があり、故国から歌手を呼んでイベントを開催したい、今度呼ぶのはインドで受賞した新進の歌手なので、在日ネパール人だけの興行とするのではなく在日インド人や日本人にもアピールしたい、と言うのでもしやと思い問いただすと、やはり件のIndian Idol 優勝者Prashant Tamangの事だった。
既にインドのソニーと契約しているので来日の為の手続きなどはソニーを通さなければ、とか今まで呼んだ歌手と違い、国民的スターだから大きなホールをブッキングしなければ、などと言ってかなり本気らしい。
スケジュール的に今年の正月は無理なので来年のGWあたりに・・・などと目論んでいる。
企画倒れの多いKさん主催なので果たして実現するのか甚だ疑問だし、実現したところで在日ネパール人以外の集客があるのか無いのかと疑問だらけだが、たまたまインドで見たコンテスト番組の影響力がここまで及んでいる事に深い感慨を覚えた。

posted by asiahunter at 03:09| Comment(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする