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2017年08月04日

アトゥール・グルン君宅での食事


たまたま先日マガル族旦那とライ族妻の夫婦という、ある種現代を象徴するようなネパール人夫婦知り合った。「現代を象徴するような」というのは、元来ネパール人は同族内で婚姻するのが一般的だったがここ数年〜十数年でその慣習が急速に失われつつある。特に同じく日本在住のインド人を見ているといまだに婚姻はインドに戻り、故国の親許が決めた相手(主に滞日の独身インド人は男性である場合が大半なので主に許嫁)としがちであるのに対し、社会的・経済的な要因もあるのだろうがネパール人はインド人とは対照的に自由恋愛で民族や時には国籍の壁も超越して婚姻する度合いが高いと感じる。



そんな事に思いを馳せつつも頭の中は数年前訪問した東ネパールのダラン。ヒレなどで食べた食事がよみがえる。「ライ族だったら豚(スングル)料理だね〜、希少な素材の味を味わうのはやはりセクワに塩だよね」などとスングルスングル知ったかぶって喋ったのが功を奏したのかお宅に招いてくれる運びとなり、本日彼らの自宅のディナー招かれた。途中から彼らの友人であるグルン族のサンタ君も加わった。



狭いアパートの一室に通されまずは手土産の缶ビールで乾杯。まずはネパールの酒談義。
コド・コ・ロキシー(シコクビエのロキシー)、ファーパル・コ・ロキシー(そば粉のロキシー)などの他にシャウ・コ・ロキシー(マルファともいう/リンゴのロキシー)も美味しいという。タカリ族だけの飲み物かと思ったがグルンの彼らも飲むらしい。カトマンズ市内にも入手できる酒屋があるという。






まずアテ的な感じでスングル(豚肉)炒め、ゴーヤなどのアチャール、生キュウリが登場。 アチャールもその場で作ったのに非常にコクがあって美味しく、酒が進んで仕方ない。



ちなみにネパール料理を特徴づける食材の一つとしてサグ(青菜)が有名だが、彼らに言わせるとラヨ・コ・サーグ(からし菜)が最も脂身たっぷりの豚肉に合って美味いという。ラヨのシーズンとしてはダサイン・ティハールの頃、つまり秋口が最盛期らしい。またこれに合わせるバート(ライス)で一番美味いのはマンスリ・チャマルという銘柄だという。ちなみに南インドでよく食べられるソナマスリとネパール語のマンスリが同じなのかどうかは不明。(インドのソナマスリは『黄金の蔦』の意味)ちなみにサーグ(青菜)にはトリ・コ・サーグやヒリ・コ・サーグなど様々な青菜が無数に存在するという。一つ一つ全部味比べしたくなった。

今日の豚肉は、日本のスーパーで販売しているものでは故国ネパール・ライ族の味には程遠いらしく、新大久保の中国人の食材店で購入したという脂身と皮の付いた豚肉が実に美味い。噛むほどに味わい深く脂身は甘く、諸事情が許せば半永久的に咀嚼し続けたい程。これ程の肉料理がこのような豊島区内の家賃4万円の失礼ながらボロアパートで供されようとは驚嘆に値する。やはり南アジア料理に於いてレストラン料理>家庭料理というヒエラルキーは変わらない。ネパール料理は家庭の味が最上位なのでこうした機会に恵まれた場合、可能な限り無理をしてでも食べさせていただく事にしている。




彼らの(友人のサンタ君も含めて)日本でのキャリアは九州福岡市での学生としてがスタートだったという。初の日本滞在は福岡市で、皆さん福岡に数年間滞在後に東京に来ている。福岡市の方々には大変お世話になったとしみじみ述べており、こうした好印象がその後に続く訳で就学や住環境に於ける福岡市のアドバンテージは他の都市の追随を許さないまでになっていると改めて感じた。






スングルのアテを都合3〜4度お代わりしたあと、ようやくメインのダルバート。たっぷりのシダラ入りダルにはギウがたっぷりサルビスされ、そのカロリーの高さに若干躊躇しつつも身体は本能の赴くままに食べ、咀嚼を続ける。あまりのタルカリの美味さにバート(ライス)がcan't stop 状態となり、再度奥さんに圧力鍋でバートを炊いてもらった。改めて家庭のネパール料理の美味さに圧倒された一夜だった。

#ネパール人家庭でいただく食事シリーズ



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2017年07月29日

UP州出身ギャンさん宅での家庭料理


先日印度料理研究会に行った折、北インドのUP(ウッタル・プラデシュ)州東部、ミティラー画で有名なビハールのマドゥバニにも近い町の出身のギャネンドラさん(通称ギャンさん)という男性インド人と知遇を得た。ベジタリアンで料理が趣味というなかなか珍しいタイプの北インド人男性で、UP州東部やビハール州の料理の話を聞いている内に次第にギャンさんの手料理をご馳走になる方向性に話しが向かっていく。インド料理は家庭の味が最上位なのでこうした機会に恵まれた場合、可能な限り無理をしてでも食べさせていただく事にしている。数名のインド料理好きな方々をお誘いして訪問する事となった。





行く前にチラッと聞いていたが、リッティ・チョーカーを出してくれたのには驚いた。まさかリッティが日本で食べられるとは。
リッティは西のラジャスタンではバッティとも呼ばれるアタやベサン粉で出来た硬い団子状のロティ。本来ならば乾燥牛糞のゆるやかな火でゆっくりと調理されるのが一番美味しいとされる。
チョーカーは東インドのバルタにも共通する、野菜数種をよく煮込んでドライなディップ状にした付け合わせでリッティにはこのチョーカーがだいたいセットになる。



それ以外に、
チャナーのダール
キャベツ・ジャガイモ・チャナのサブジ
プーリー
ウラッド豆のワデ
キャベツとキュウリのライタ
青唐辛子のチャトニ
クミンを入れたバターライス
をご馳走になった。



どれも非常に丁寧な料理され、油っこさや強目の味付けとは無縁の優しい北インド家庭の味。ギャンさんも多くのインド人同様、田舎のお母さんの料理が一番美味しいといい、趣味の料理もお母さんをお手本にしているという。北インドの田舎の家庭にごはんを食べに行きたくなった。



#インド人家庭でいただく食事シリーズ
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2017年07月27日

オリッサ出身者宅でいただいたダールマー




とある用事を頼まれ、江東区大島団地在住のオリッサ出身者のお宅に伺う機会を得た。やや遅い時間帯だが晩御飯はこれからだという。






「オリッサ出身という事はダールマーなんかが晩御飯のメニューに上がったりするんですか?」と何気なく聞いたらビンゴだった。ちょうど鍋の中で出来立てのダールマーが湯気を立てている。






ダールマーに合わせるのはチャパティで、付け合せにインドから持参したというアムラのアチャールも食べるという。アムラは柑橘系の果物で、インドではアチャールの他色鮮やかなジュースの材料となったりする。和名はユカンというらしい。



インド人の台所に興味があるので写真撮っていいですか?とバシャバシャやっていると「ちょっと食べて行きますか?」と待っていた言葉が。インド料理は家庭の味が最上位なのでこうした機会に恵まれた場合、可能な限り無理をしてでも食べさせていただく事にしている

ダールマーは南インドのサンバルにも似た味わい。ドーサにも合いそうだが、オリッサにドーサは無いがピターという米粉を焼いた料理はある。そうした料理も家庭でよく作るという。アムラのアチャールも特有の酸味で美味い。素朴ながらも滋味深い味わいで、オリッサ料理への興味が更に増した。





#インド人家庭でいただく食事シリーズ
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2017年07月01日

インドネシアのカレー店 Go! Curry


ジャカルタでもインド料理が気になり、検索していると少し気になる店が引っ掛かった。
市内に5つのブランチを展開しているGo! Curryという店である。後述のようになかなかユニークなメニュー構成だった。尚オーナーはインドネシア人とのこと。




バジャージ社の三輪タクシーが走っている点がインドを知るものに安心感を与えてくれる。
Go! Curryにはこれで行った。



店内に入り、早速気になっていたメニューを開いてみる。非常に斬新で面白い。
ブラウン、グリーン、レッド、イエロー、ローガンジョシ、ティッカマサラの各6種のカレー・グレービーから一つをチョイス(このラインナップはロンドンのインド料理屋を想起させるが、このうちブラウンカレーはメニュー説明によれば「日本の伝統、リンゴとカルダモンをヒントにしたシェフ秘伝の味」と記載がある)。



次いで5段階の辛さから一つをチョイス。
次いでカレーに合わせるライスを4つのバリエーションからチョイス。
最後にトッピングを10種の中からチョイス。上記で選択した各6種のカレー・グレービーは単にグレービーだけで具は改めてチョイスする。この具にはタンドリーチキン・ティッカなどイギリス風インドカレーの定番がある一方、チキンカツや魚やエビなど「日本風」の具も含まれているのが興味深い。要するにこのグループはイギリスカレーと日本カレーの双方からアイデアを取り入れていることが分かる。



ここで選択したのはローガンジョシの中辛、アロマティック・イエローライスにしてトッピングをタンドリーチキン・ティッカにした。



またそれに加えてサイドメニューにナン・ウィッチNaan'wichなるナンを使ったサンドイッチもオーダー。中の具はチキンカツをチョイスした。

内装はロンドンの最新インドカレー店を思わせる作りに日英融合の斬新なメニュー構成。
長くインドを支配してきたイギリス・ロンドンには当然インド系レストランも多い(蛇足ながら、イギリスのインドレストランを経営しているのはインド人じゃなくてバングラデシュ人だ、と訳知り顔で説明する人もいるが、そもそもベンガル地方の特にシレットからの移民がロンドンに流入したのはバングラデシュが建国される1972年以前からであり、当時バングラデシュ人という概念は存在していない)。

ロンドンのインドレストランの一部は従来、チキンティッカマサラ、コルマ、ビンダールー、ローガンジョシ、マドラス、ダンサクなどのイギリスナイズされたインド料理(それらはインド本国のものとはかなり乖離している)が主流であった。この辺りの事情はリジー・コリンガム著『インド・カレー伝』に詳しい。特にここ数年〜十数年、ロンドンのカレーシーンではより本格志向に流れる傾向があり、例えばメニュー名に「アレッピーの…」とか「カシミールの…」などとインドの地名を頭に付ける事で本場感を出そうとしている。また内装もインドの雑貨などを取り入れたりしてリアリティを持たせようとしている。


写真はロンドン市内の店舗内装

とは言え長年イギリス風インド料理を出し続けてきたせいか、味の点ではインドのそれとは遠い印象で、例えばロンドンの老舗インドレストランでニハリを注文したらグレービーが甘くまるでティッカマサラ味だったりした。下写真参照



このGo! Curryは内装やメニュー構成はもちろん、そうしたある種オリジナルとは遠いロンドン風インドレストランのテイストすらも取り入れて構成させているのだとしたら、ややうがった見方かもしれないが、かなり練られたコンセプトだなという印象を持った。


Go! Curry店内
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2017年06月29日

【インドネシアのインド系】メダンのスィク教徒移民


メダンに於ける最古のグルドワーラーSri Guru Nanak Dev Jiへ。
この寺院はマリアンマン寺院のすぐ隣に建てられている。








参拝に来ていた美人姉妹。お姉さんの方が併設の学校を卒業したという。


キールタン吟詠奏者。こうした寺院労働者は数年ごとの契約でインドからやって来ている。


掲示板の表記は既に移民第一世代から数えて3〜4世代目なのだろうがいまだにパンジャブ語で記述されている。

中は広く立派な造りで複数の奉仕者の方々が朝の早い時間からランガルの準備や掃除などをされていた。共食の場も広く厨房も使い込まれた巨大な鍋や鉄板があって興味深い。













ちなみにこのグルドワーラーではある種の互助団体のようなグループが機能していて子供の教育などの活動を行っている。日曜学校で自分たちの子息にパンジャブ語のクラスも開いている。こうした互助団体はスィク教以外にもヒンドゥーやムスリムのものがメダンやジャカルタなどインドネシアの主な街に存在するという。





〜〜〜メダンに於けるスィク教徒移民略史〜〜〜
1920年代には既にメダン及びビンジャイBinjaiには相当数のスィク教徒の移民が存在してした。メダンに於ける最初のグルドワーラーSri Guru Nanak Dev Jiは1911年にマリアンマン寺院のすぐ隣に設立された。北スマトラ内のイギリス所有のプランテーション労働者として、また守衛などの仕事に就いていた。多くのスィク教徒の出身地はアムリトサルやジャランダール周辺からであった。第一次大戦頃までの初期のスィク移民の形態は独身で6〜7年移民労働をした後に故国に戻り婚姻し、妻を伴って再度インドネシアに来るというパターンだった。その後のスィク人口増大に伴いインドネシア国内でも婚姻するケースも増加した。

尚、メダンにはSri Guru Nanak Dev Ji以外に
Gurdwara Guru Arjan Dev Ji
Gurdwara Misi Shree Guru Tegh Bahadur
Gurdwara at Kampung Anggrung

という3つのグルドワーラーが存在する。
メダン以外にスィクの多い街はBinjaiSiantar(ともに北スマトラ)である。
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2017年06月28日

【インドネシアのインド系】メダンのタミル系移民


メダンを中心とする北スマトラはインドネシア中最大のインド系人口を抱える。
このメダンに於いて、近代移民流入後設立された中で最古のヒンドゥー寺院が1884年建立のマリアンマン寺院である。一泊だけのメダン滞在だが、インド系移民の現在を少しでも見たかったので地元の人に開門時間を聞いて急ぎ訪問した。











プージャリーのダルマさんは祖父の代からのメダン在住。祖父はマドゥライの出身だという。寺院ではタイプーサムやポンガル、シヴァラットリ、ナヴァラットリなど主要なヒンドゥー祭礼を司っている。尚、メダン在住のタミル系はヒンドゥー・ムスリム他合わせて約75000人居るという。



マリアンマン寺院の本尊はマリアンマン、その右にムルガン、左にピライヤールが祀られている(下図参照)。また寺院にはDharm Putra Schoolという学校も併設されている。



〜〜〜メダンに於けるタミル系移民略史〜〜〜
記録として残存する最古のインド人のインドネシア入植は、1873年に25人のタミル人労働者が当時イギリス支配下にあったペナンからタバコのプランターだったオランダのNienhuy社の要請で来たというものである。その後都市部/農地で労働するインド人が増加し、ペナンやシンガポールだけでなく直接本国インドからも移民が流入するようになり、1875年にはタミル/ジャワ人合わせて北スマトラで労働に従事する人口が1,000人に上るようになった。主な仕事は農地の開墾や道路工事だった。

先に移民として入植したタミル人が故郷の若者に声をかけてインドネシアでの仕事を斡旋し、移民を促進したケースもある。こうしたタミル人の中には、本来マラヤで働けると言われて船に乗ったものの到着したら北スマトラだったというような契約労働者もいるという。英領インド政府はこうした移民のオランダ領への流出に消極的だったが官民一体となったオランダのプランテーション会社による度重なる交渉により徐々に両国で取り決めが構築されていった。

マリアンマン寺院Mariamman Kovilは1884年に当時Kampung Klingと呼ばれ、現在はPetisaと呼ばれる地区に設立された。Kampung KlingのKampung はインドネシア語でいう村、Klingは後述するように南インド人の総称である。Kampung Klingはまた別称Kampung Madrasとも呼ばれた。
寺院本尊のマリアンマン女神像はKampung Klingからほど近いJalan Hinduと今日呼ばれている場所に祀られていたものが移設されたという。Jalan Hinduは20世紀初頭にAppasamy Chettiarというチェティナドゥ出身の商人がオランダ政府から与えられた土地を老境になり故郷に戻る前に転売したエリアである。オランダ政府から与えられる以前からこの地にはインド人が多く既に集住地区となっていた。現在もインド人が多くJalan Hinduという通りの名もそのままである。



Kling(キリン族/キリン人)は主にMadras Presidency及びCoromandel coastを出身とする南インド人の総称。Klingの名称は6世紀に南インドに樹立したカリンガ朝を由来とする。この内特にマレーシア(マラヤ)ではタミル・ムスリムの事はChuliasと呼ばれていた。またベンガリー(ベンガル人)は広く北インド人を総称。昭和初期にこの地を旅した金子光晴『マレー蘭印紀行』中公文庫109ページには「牛糞の灰をぬりつけ、蓬髪、痩躯の印度キリン族。兇猛で、こころのねじけたベンガリー人。」という記述がある。
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2017年06月27日

【インドネシアのインド系】ジャカルタのグルドワーラー Yayasan Sikh Gurudwara






ジャカルタ市内にも3軒のグルドワーラーがあり、建物としては最古のYayasan Sikh Gurudwaraへ(1955年建立)へ。‪住宅地の中に現れる非常に大きく立派なグルドワーラーであるが、このPasar Bharu地区がジャカルタの街で最もインド人が多い一角である。


中は非常に大きい。


荘厳な雰囲気の漂う礼拝室。



頭を覆う布を借り参拝した後、熱心な奉仕者の方々が巨大な厨房でランガル(無料の食事供与)の下準備をしているところを見学し、そしてランガルをご馳走になる。内容はチャパティ、チャナーマサラ、ダールマッカニー、キール。シンプルながら滋味深い味わい。食べ終わった後は自らターリーを洗い場に下げて自分で洗って片付ける。

















ちなみにジャカルタ最古のグルドワーラーは1925年建立のTanjung Priok Gurudwaraだったが、10年前に取り壊し別の場所に移転したという。







グルドワーラーでは毎朝キールタン(グルの賛歌吟詠)が生楽器によって奏でられる。そのキールタン奏者のBachiter Singh Riarさんによるとジャカルタには約500家族のスィク教徒が居るという。
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2017年06月26日

【インドネシアのインド系】ジャカルタのインド系移民略史

〜〜ジャカルタのインド系移民略史〜〜

近代になってからのインドネシアにおけるインド系移民はメタンを中心とした北スマトラ島が主で、ジャカルタ(旧バタビア)にインド系移民が流入するようになるのはやや時代が下ってからである。

ジャワ島には18世紀半ばにタミル・ムスリムの貿易商が居住し始め、次いでマラバール(北ケーララ)出身のムスリムが居住するようになった。ただしこうした人口は(当時の宗主国であったオランダの)統計上には出てこない。

ちなみにジャワ島ではこうしたタミル・ムスリム、ケーララ・ムスリム含む外国人移民全般をKojakという呼び名で呼んでいたという。

19世紀初頭に宗主国オランダがフランスに併合され、従来のオランダによるジャワ島の統治が一時的にイギリスによって経営された。その時、現パキスタンのスィンドが1843年にムガール帝国からイギリスの統治下におかれると、特にムスリムよりも仕事上の制約の多かった在スィンド・ヒンドゥー教徒に自由が保障された海外移民がイギリスによって奨励され、多くのヒンドゥー教系のスィンディーがジャカルタに来るようになった。これをジャカルタにおけるインド系移民の第一波と捉えることが出来る。

ジャワに移民したスィンディーは1870年代には既に2つの商会を立ち上げている。その内の一つであるK.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.は驚くことに現在も世界中に支店を構える商社として現存し、(現在の本社は香港)更に日本にも横浜/大阪にも支店がある。取り扱い品は主にテキスタイルや宝石であるらしい。1975年の創立100周年記念の際、支店は全世界26か国に広がっていた。

尚、K.A.J. Chotirmall & Co. Ltd.大阪のBHAGWAN NARAINDAS氏が所有する大阪のビルは大阪市中央区南本町1-4-6 のBharatビルという。これは流出したパナマ文書に記載されていた情報でネット上に拡散されている。まさかジャカルタのインド人の歴史を調べていてパナマ文書の掲載されているインド人の名前に遭遇するとは思わず大変興味深い。

K.A.J. Chotirmall以外にも多くの大小各スィンディー系商会が登場し、経済的な成功と共に次第に政治的発言力も増していったが、こうした活動は1942年の日本の統治下以降弾圧された。

スィンディーに次いでジャカルタにやってきたのはパンジャブ系移民だった。時代にして1920年代から1940年代にかけてである。スィンディーと違いパンジャブ系移民は直接インドから来るケースは少なく、マレーやシンガポール、また一部はメダンなどの北スマトラから流入するケースが多かったという。とは言えメダンなどの北スマトラに流入していたのは主に北パンジャブ人で、ジャカルタに流入したのは主に東パンジャブ人であったという。

当初彼らは夜警やドアマンなどの雇われ仕事についていたが、次第に自らの商会を立ち上げるようになった。その頃宗主国オランダにスポーツ用品の需要が高まり、Bose & Co.やBir Co. Nahar Sportsなどの商会が設立されていった。スィンディー系の商会が主にテキスタイルやファンシーグッズを扱っていた一方、後発のパンジャブ系商会は主にスポーツ用品の分野で商圏を広げていった。

1925年にはTanjung Priokにジャカルタ初のグルドワーラーがスィク有志によって設立された(2017年現在老朽化により移転)。元来ジャカルタのパンジャブ系の最多居住区だったPasar Bharu地区へのグルドワーラー設立の需要が高まり1954年にYayasam Sikh Gurudwara Missionが組織され、翌1955年にYayasam Sikh Gurudwaraが設立された。総工費は当時の金額で約250,000インドネシア・ルピアであった。





Yayasam Sikh Gurudwaraの外観と内陣

1930年代から第二次大戦にかけての時期にはタミル系の理髪店も多くジャカルタに流入した。彼らの理髪店が多く集まった地域もまたスィクの多いPasar Bharu地区であり、現在でもジャカルタの中では最もインド系住民の多い地区の一つだと思われる。このタミル系が第三の勢力である。

第四の勢力としてグジャラート出身者があげられる。特にグジャラート・ムスリムが多数派であった(ヒンドゥーとムスリムの割合は3対7ぐらい)。彼らは1930年代当初、砂糖を扱う貿易商であったが、次第に茶葉へとシフトしていった。またタミル・ムスリムを除く他のインド系と異なりムスリムであったため戦後は地元のインドネシア女性と婚姻しローカル化していく者も多かった。

尚、1930年にPersatuaan Hindustan Indonesiaといった組織はあったものの、戦前はインド出身者全体が加入するような固定した組織がインドネシアには存在しなかった。戦後1949年になり、こうしたインド出身者を横断する団体であるBombay Merchant Associationが設立された。とは言え参加したのは大半がスィンディー系商会で、パンシャブ系の商会は3社のみだった。またBombay Merchant Associationの初代会長であるT.G.Malkaniが校長となって初のインド人学校Gandhi Memorial Schoolが1958年創立された。創立当初90人だった生徒は半年後には600人を数えるほどになった。

参考:『Indian Communities in South East Asia』K.S.Sandhu, A.Mani
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2017年06月11日

【富山への道 vol.8 富山市Aポートでの販売会】








昨日とは打って変わって快晴のこの日は、昼の部は料理教室で夜の部は食べさせられ放題。
遅めの昼食も兼ねて近くのスーパーに食材の買い出しをするマサラワーラーに同行。地元食材を活かしたインド料理を心がけるのがマサラワーラー流であり、決して東京から宅配便(クールでなく普通の)で送るなどという事はしない。





会場にはバナナの葉が敷かれてmeals ready。会場手前に店開きさせてもらっているのでその場で食器を買ってマサラワーラー・ミールスを盛り付けいわゆる #するとどうだろう劇場 を展開するのも比較的容易。実際来場されたカレー探偵やみちゃんによる劇場を激写させていただいた。



夜遅くまで賑やかで楽しいイベントでした。イベント会場のAポートの清水社長様奥様、スタッフの山下さん、また今回の富山イベントの企画から手配から根回しに至る諸々ご尽力いただいた石井さんには心から感謝です。ありがとうございました。

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2017年06月10日

【富山への道 vol.7 tuttiさんでのイベント販売初日】




イベント初日は葉っぴーカフェtuttiさんでの出店。
ややもすれば忘れがちだが、これが富山での本来の目的である。










かなり激しい雨風の中、たくさんの皆さんにインド食器を見ていただいて感謝です。もちろんお客さんのお目あてはマサラワーラーという方が多いのですが、南インドミールスを食べさせられ放題された後は自ずとインド食器にも関心が向くようで、想定以上に盛況でした。







葉っぴーカフェtutti主催の荒木さんがこの日お誕生日とのことでにぎやかなイベント会場が花束贈呈などでさらに華やかに。




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2017年06月09日

【富山への道 vol.6 富山モスクでのイフタール】






富山と言えばあまりにも有名な射水スタン。国道8号線にはパキスタン人が経営する中古車屋が点在し、複数のパキスタン料理を提供するレストランも存在する事はよく知られている。





これだけパキスタン系カルチャーで有名な富山なのだから、モスクに行ったらさぞやと思っていたら事実その通りだった。モスク見学の下交渉もしてもらった石井さんの車に乗せてもらってマサラワーラーと共にマグリブの時間少し前に富山モスクに到着(ちなみに富山モスクは女性でも入れる)。ギリギリ間に合って安心した。急きょお誘いした富山のカレー愛好者あんとんさんともモスクで合流。





土曜日ということもあってかなりの数のムスリムが集まっている。パキスタン人が圧倒的だがバングラデシュやインド、インドネシア人なども居る。そのかなりの人数に圧倒される。





礼拝所にブルーシートとビニールシートが敷かれてイフタール開始。イフタールの内容は他のマスジドと同じデーツ、パコラ、ローズミルク、ミックスフルーツ、チャトニだった。一度これらをいただいてお腹を少し満たしたあとナマーズをする。その後再度、今度は別室に移動しそこでさらに本格的な料理(この日は大鍋に作られたチキンカレーと前日寄進者によって大量に振る舞われたホットスプーン製造のナーン)が提供されるという運びである。





調理は大きな調理室で行われているのがさすが富山モスク。前日の固くなったナーンは一度バケツの水に漬け、それを巨大なタワで焼き、上から油を垂らして復活させている。これらがダイナミックに運ばれ集団会食。チキンカレーも美味しく、ナーンは若干の水っぽさはあるが出来立てとは別種の美味しさが感じられる。






手前に座っていたパキスタン人父と日本人母を親に持つ子供(小4)とちょっと会話。好きな食べ物は?と聞くとパヤとビリヤニという。学校の給食は食べられない日があり、その際はお母さんが弁当を持たせてくれる。ウルドゥー語も分かるがウルドゥー語で会話しようというと途端に言葉数少なくなる。









ちなみに富山モスクは2010年に宗教法人格を取得していて掲示板には取得時の書類も提示してあった。喜捨や固定資産税が非課税とのことである。




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2017年06月08日

【富山への道 vol.5 インド家庭料理の店ニーラジュ】



午後ようやく富山県入りし、石井さんが予約してくれていた魚津市のインド家庭料理の店ニーラジュへ。
マサラワーラーや荒木さんご夫妻、有坂さんと合流。久しぶりの川村さんと楽しくご挨拶。



この日のリクエストはガルワール家庭料理
(前回訪問した時にニーラジュの川村さんからガルワールの話を興味深く聞かせてもらい、その時の印象からガルワール家庭料理をリクエストしたが、本来ニーラジュはパンジャブ料理やマルワリ料理が得意だとの事。次回訪問する際はパンジャブ料理にしよう)

いただいたターリーには以下の料理で構成されていた。



マンドゥワ・キ・ロティ/manduwa ki roti
(manduwa=シコクビエのロティ。現地ガルワールではゲヘットというガルワール特産の豆を混ぜる事もある)

バーリー/Baadi
(manduwa=Kwada ka Aataを材料として作る、ネパール料理でいうディロと全く同じ。噛まずに飲み込むという食べ方を含めてネパールと共通しているのが本当に興味深い)

カトリに入っている料理は(左から)

カタイ
(レモンとゴマなどで味付けた酸味='カッター'たっぷりのチャトニ)

《豆のおかずが三種》

チェースー CHAINSUまたはchainsoo
(ウラドダルの煮込み。通常はバート/白メシと共に食される。ギーでショウガ、トマト、ニンニクのペーストとJakhya=英名Tickweed=和名ヒメフウチョウソウ(姫風蝶草)の種と共にテンパリングされる。このJakhyaはガルワール料理の多くに使用されるホールスパイスである。尚チェースーの発音が難しい) 参照サイト

カーリーバッティ kaali BatiまたはGahat ki dal?
(カーリー=黒い/バッティ=大豆、で黒大豆)

ミックスダル
(数種類の豆がミックスされた煮込み。ネパールのダルを彷彿とさせる)


《サブジ各種》
ピーマンのサブジ

大根の葉とベスンのサブジ
(ガルワールで採れる大根はPahari mooliと呼ばれジャガイモと共にThechwani/テチャウリという煮込み料理も有名。レシピサイト

カボチャとエンドウ豆のサブジ
(カボチャのバジ/कद्दू की सब्जीはガルワールの定番料理。カボチャ/कद्दू もガルワールではポピュラーな食材である)


ジャガイモのキチョナー

里芋のグットケ/Arvi ke Gukte
(スパイスで味付けされたドライタイプの芋料理。ジャガイモのグットケもよく食べられる)
ジャガイモのグットケのレシピサイト

ウラッド豆のパコリ/Urad Dal ke Padoke(Wada)
(片面に黒ごまがびっしり付いている。ガルワールの結婚式に欠かせない料理という。南インド同様Wadaとも呼ばれる)

カボチャのライタ
(ニンニクなど複数の香味野菜などが入っていて複雑ながらやみつきになりそうな深い味)



食後はチャイとサーラ葉皿に入ったインド菓子。

ちなみにネット上でみかけたこちらのサイトはガルワール婚礼料理について詳しい。
http://blog.byoh.in/traditional-garhwali-wedding-ideas





※他にガルワールでよく食べられる料理として以下のものがある
Sisunak SaagまたはBICCHU BOOTI SAAG(和名イラクサ/英名Nettle、野草のサーグ。これもまたJakhiyaと塩で味付けされる)
CHHOLYAAN ROTA(朝食として食べられるスナック料理。小麦とジャガリまたは砂糖、フェンネルなどで味付けされる)
Phaanu(chainsooと同様の豆料理。特に豆の指定はなくいくつかの豆で作られる。バーリー/Baadiと共に食べるのに最適)
Bhang ki Chutney(Bhang=ケシの実のチャトニ。レモンで酸味を付ける)
Gahat (Kulath) ki Dal(ホースグラムの煮込み)
Kafuli(パラクなどの青菜をドロドロに煮込んだ料理)
Jhangore ki Kheer(ヒエ=Barnyard Milletのおかゆ)
roat(全粒粉で作ったジャガリで味付た甘いパン/婚礼時によく食べられる)
Arsa(小麦で作ったお菓子/婚礼時によく食べられる)



一つ一つとても丁寧で美味しかった。特にライタは今まで味わった事の無いタイプ。北インドの中でも北部に位置するガルワールはあまり豊かな土地柄とは思えなかったが、豆料理を中心に非常にバラエティー豊富な料理が存在する事が分かり興味深いし、ここまでの料理を作る川村さんの技量には驚きしかない。トークも楽しいしインド家庭料理経験値も豊富だし、個人的には今後東京などでも料理教室やイベントなど行っていただきたいものである。



※インドの雑穀
Barnyard Millet=Jhangora=ヒエ
Finger Millet=Mandua =シコクビエ(=Ragi)
Foxtail Millet=Kangni=アワ
Kodo Millet=Kodra =スズメノヒエ
Little Millet=Kutki =アワ
Pearl Millet=Bajra =トウジンビエ
Proso Millet=Barri =きび
Sorghum Millet=Jowar =モロコシ
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2017年06月07日

【富山への道 vol.4 ヒマラヤの詩】









以前ナマステ福岡の帰途、中央道で長野県を回って戻った時に行こうとして(距離的に)行けなかったヒマラヤの詩に今回やっと行けた。








場所は戸隠にあり、長野市方面から進むとmon marushimeよりも更に山懐深い山道を進む事になる。しかし途中国定公園が見渡せる展望台などあったりしてこの道中ドライブが素晴らしい。






カーナビにも表示されない山中にあるヒマラヤの詩にようやくたどり着く。周りは鬱蒼とした森に囲まれ正にヒマラヤな雰囲気。

広い店内に大きな木のテーブルが落ち着く。メニューのネパール定食、カレーはポークをチョイス。提供するまで時間がかかると聞いていたので店内本棚にあった地球の歩き方ネパール92〜93年度版などパラパラめくりつつ待つと思いの外早くタリ(ターリー)が運ばれて来た。





脂身の多い豚肉が嬉しい。ネパールやインド北東州の人たちは必ず赤身だけでなく脂身も食べなければ片手落ちである。またごま油の効いたムラコアチャールもいい。ゴルベラコアチャールも本番テイストでチャナーのスナックによく合う。全体的にバランスが取れた非常に美味しいタリだった。

食後女性オーナーさん(日本人)とお話し。毎年ネパールに行かれている非常に研究熱心な方で昔のネパールからネパール各地の食文化まで詳しく話していて楽しい。お店は今年で20年以上続いているとの事で、場所だったり予約を受け付けない営業方針だったり未就学児の入店お断わりだったり店内写真お断わりだったり夜の営業はしていなかったりという事前情報にややハードルの高さを感じたが、気さくで料理も美味しく、やはり長く経営されてきているだけあると感じた。

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【富山への道 vol.3 飯綱町のmon marushime】




長野県飯綱町のmon marushimeでケーララ・ランチミールス。
長野市からかなり山懐深く、風光明媚な山並みの中車を走らせると可愛らしい外観のお店に到着する。
外観もそうだが内装も本当に味があって素晴らしい。












今日のミールスは
トーレン
パチャリ
ポリヤル
ラッサム
サンバル
ダル
生姜のアチャール
ココナッツチャトニ
パパル
長粒米








もちろん見た目通り全部美味しかったが、ギーの芳醇な香り豊かなダル、地元産のアチャールも味わい深く特に美味しかった。丁寧に下処理された野菜が素晴らしい。カフェ主体の営業らしいがこのミールス目当てに遠方から来る客も少なくないと思われる。


以前インド食器でご利用いただいたオーナーの北野さんにご挨拶出来て良かった。以前ケララの風で修行されていたそうで、マサラワーラー他共通の知人もカブっていた。
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2017年06月06日

【富山への道 vol.2 Bilal Masjidのイフタール】




Mahandi Halal Foodのレラさんからもおススメされて、埴科郡坂城町南条にあるBilal Masjidへ。
ハラール食材店があるということはある程度のムスリムや外国人人口があることの証左だが、山あい深い長野県の埴科郡といったところにこれほどの豊かな外国人文化が根付いているのが意外だった。


駐車場に車を止め、立派な外観のマスジドに入ると例によって不審人物を見る眼が注がれるが、ヒンディー語を話して何とか誤解を解く。さもないと公安とでも思われたらいろんな意味で心外過ぎる。





パシュトゥーン、パンジャブ、カラチなど出身地は様々だが圧倒的にパキスタン人が多い。約30人程は居ただろうか。他に数人インドネシア人らしき人も居た。日本語堪能な人が多く、20年以上在住している人も居る。皆さん優しく対応してくれ、調理室でパコーラを揚げている様子など見せてくれる。





やがてマグリブの時間が迫り、厳粛な雰囲気の中、イフタールが始まる。デーツの他、パコーラとヨーグルトソース、フルーツチャート、バダムミルク、スイカなどといった内容だった。ちなみに平日は比較的時間に自由の利くパキスタン人が多く、土日はインドネシア人参拝者が多いという。



ちなみに駐車場には沢山の車が入り、車線を無視して詰めこめるだけ詰めこむパキスタンスタイルな停め方なので奥に停めた車を出すのがやや大変だった。


posted by asiahunter at 06:00| Comment(0) | ■在日ムスリム系 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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